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霊界通信3の15、天照大神の本質と真の神、天照大御神のメッセージ

2021年02月24日 | 教育
さて、ここからは、信仰について、その「作法」(とでもいうべきものがあるとすれば、それ)は如何にあるべきか、この点に関して、話をしていきたいと思います。

日本の神道(のみ)と言わず、世界各国の宗教は、(それぞれが)それぞれの作法と(も)いう(べき)ものを持っています。この作法とは何かと言うと、如何に神の世界に入るべきか、という方法です。これに関して、仏教では「反省」という様な方法も教えていますし、キリスト教では「懺悔(ざんげ)」という考え方も挙げ(られ)ているようです。

さて、日本の神道では、昔より「禊祓(みそぎはらい)」という事が、大変重視されています。人々は、これを単なる儀式として捉えている向きがありますが、実は、この作法の中に、重要な意味があるのです。

この世の中には、神の力が増進される方向での、心のエネルギーもあれば、神の力が実現するのを、何とかして妨げんとしている悪の意志、悪の自己実現の意志もあることは事実です。

神が人間を創られた時に、それぞれの人間に、神と同じ様な意志、自由意志というものを、小さな形で(はありま)すが、与えました。それが、(その人が)思い違いをすることによって、その人の心の中に、悪しき思いが入ることによって、その自由意志を濫用(らんよう)した(結果、そうした)者が、それなりの悪しき波長を作り出して、やがて、悪霊という様なものを(霊界に)生み出すことと、なって(しまって)いるのです。

こうした、悪霊と関わ(る時)に、信仰(というもの)を如何にすべきであるか。彼らの取り扱いは如何にすべきであるか。私は、それを考えたいのです。

これを思うにつけても、(私は、)悪霊には、本来、自分が、今、如何なる立場にいる(の)か、という事を、知らせてやる必要があると感じるのです。

(彼らには、)本来(的には)、自分が今いるのが、如何なる世界であるのか。自分達が(そこで、本来の目的と違う、場違いな)悪(という行為)を働いている(のだ)、という現実を、知らしめる必要があると思うのです。

これを救済するという愛の道は、また別にあります。しかし、それ以前に、自らが救われるべき対象として、今、人々に迷惑をかけている、という事実。神の道に背いている、という事実。これは、(彼ら自身の眼の前に)明らかにする必要があるのです。

彼らが、神の道に背いている、という事を(彼ら自身で)自覚する、という事が、何にも増して大事です。まず、自覚が、全ての出発点です。自らが神の意志に反している、という事を、彼らに自覚させないでは、彼らを、本当の意味で、更生させ、立ち直らせることは出来ないのです。

従って、まず、信仰の作法の一環として、悪霊の禊祓(みそぎはらい)という事が、どうしてもあります。地上に在る人々が、神と交信せんとする時に、悪しき想念波動の影響というものを取り去る事が、どうしても必要です。そうした悪しき想念波動を取り去らないで、神と対話し、神の啓示を受け、神の心を、心として生きて行く、という事は、この上なく難しい事なのです。

まず、悪の波動を去れ。悪の心の力を去れ。悪の入り込む余地を無くせ。自らの中に悪霊を入れてはならない。悪霊を取り去れ。まず、拭い去れ。

そのためには、如何なる事をすればよいか。悪霊を自ら遠ざけ、神と心の内で通信を為すためには、如何にすべきなのか。それは、まず、自らを清めること。自らの心の内を清めること。これが大事です。

では、自らの心の内を清める方法は、どの様な所にあるのでしょうか。

単に、心の問題として、それを捉(とら)える事は、容易(たやす)い事であろうと思います。けれども、大事なことは、まず、そうした形を作って行くということです。形を作って行く事が大事です。神と対話せんとする者は、それなりに、威儀を正し、作法を正して、精神を統一して行くという事が、大事である様に、私は思います。

そうして威儀を正さなければ、本当に、高級神霊と話が出来るでしょうか。あなた方が地上にいる時でさえ、身分の高い人と会う時には、服装なり身だしなみなりに、気を遣う(の)ではないですか。言葉使いに気を遺う(の)ではないでしょうか。挨拶(あいさつ)に気を遣うのではないでしょうか。地上に在る人間と会う時でさえ、そうした作法が現にあるではないですか。そうであるならば、地上を去った世界において、神々も、また、そうした作法を欲しているという事は、真実ではないでしょうか。

あなた方、地上の人間と、高天原の神々とは、対等ではないのです。神と対等なのは神だけです。あなた方が神であるならば、対等にロをきくもよい。しかし、現に地上に在る人間が、神と同じく悟りを得ているということは皆無。また、神と同じく、清き心で生きている、ということも皆無。神と同じく愛の思いのみで生きていることも皆無。神の如く、人々への救済の思いのみで満ちていることも皆無。即ち、心が汚れていると言ってもよいでしょう。

そうした、あなた方であるならば、自らの小ささを知り、自らの足らざるを知リ、目上の者と接するが如く、威儀を正して、神と相(あい)対座せよ。謙虚になれ、ということでもある。

自らを低くし、自らを清くして、神と相対座せよ。神の御心(みこころ)を受けて、どの様にして自分が考えを変えるか、という事を思え。神と自分を対等だと思うな。たとえ魂において偉大であっても、地上に在るという事は、下級生であると思え。

そして、そうした謙虚な心が行動となって現れ、そして丁寧(ていねい)な応対、心の状態、そして身なり、こうした事が大事です。作法だけが重要ではないけれども、それを重視し、その中に、他に対する、そういう優れた者に対する敬意を表して行くという事は、とてもとても大事です。

私は、こうしたメッセージを読む人々にも、威儀を正して読むことを、服装にも気をつけ、考え方にも気を付けることを、大事だと、言っておきたいと思います。


さて、ここからは、いちばん大切な考え方を、明らかしておきたいと思います。

それは「中心帰一(ちゅうしんきいつ)」という考え方です。中心、中なるものに、帰一、一つとなる。中なるものと一つになる。そうした意味です。

今、様々な高級霊達が降臨し、様々な教えを説いています。そうして、いろんな個性のある教えが、人々に伝えられていると思います。

けれども、私は、宗教と学問とは、根本的に違うところがある、と思うのです。それは、学問という領域においては、いろんな学科があって、それを、自分の好きな様に学んで行けばよいのであろう、と思うけれども、宗教の世界においては、結局は、全て、一なるものに戻っていく、一なるものに立ち還って行く、という意味があるからです。

その、一なるものが、本来の神である、ということです。

その、一なるものに回帰する事を、帰一する事を、帰属する事を、帰依(きえ)する事を、説かない教えは、本当のものであるとは思えません。一なるものに戻って行く、からこそ、そこに、信ずるという事に力が湧いて来るのです。信ずるという事に、生命(いのち)の泉が溢(あふ)れて来るのです。

確かに、霊天上界と言われる世界には、様々な神近き高級霊が住んでいる事は事実です。わが大和の国の高天原に住みませる神の数も、数多くはありますが、この高天原以外にも、数多くの神々が、神近き高級神霊が、住まう霊域があるという事は、真実です。それを、私も、認めは致しましょう。

ただ、そうした数多くの優れた方々が、地上を去った世界に居られる、という事が、即ち、人々が、いろんな教えを、勝手に吸収し勝手に浸透させればよい、という事ではない、という事です。違いを知る事は大事。しかし、奥なるものが一つである事、を知ることも大事です。

奥なるものとは、では、一体、何であるのか、という事を、私は、明らかにしておきたい、と思います。

それは、人間としての形をとった神、というものは、飽くまでも方便にしか過ぎない、という事なのです。

人間であるとか、高級霊であるとか、こうした人間的なる姿をとって現れる神は、飽くまでも方便としての神、即ち、方便神(ほうべんしん)にしか過ぎず、この奥には、人間ならざる神が在(あ)るという事。人間ならざる神が在(いま)す、という事。御座(おわ)す、という事。これを忘れてはならない。

私達、人格を持った神というものは、飽くまでも、地上に在る、あなた方を指導し、悟らせて行くための、方便として、姿を現しているのであり、天照の奥にあるものは、計り知れぬ叡知であり、計り知れぬ光であり、計り知れぬ愛であり、計り知れぬ慈悲である、という事を知りなさい。

女性という姿をとった、人格神としての神が、私ではない。私の奥にあるものは、人格を超えた神であり、実在の神です。それを、あなた方は、姿形なきものを認識することが出来ないために、こうした人格を持った神の姿をとって、あなた方に語りかけているのです。これを、「方便神」と言うのです。

従って、あなた方が本当に信仰すべきものは、奥に在るものです。これは、天照と言っても、天之御中主と言っても、その奥に在るものではない、という事。この奥には、姿形なき偉大なる神霊が在る、という事を、知らねばならん、ということです。

キリスト教においても、そうであろうと思います。イエスにしても、やはり、神の使いであって、神そのものではないはずです。その奥なる、実相の神というものがあるはずです。その実相の神は、日本神道の実相の神と、変わるものではないのです。

私は、地上に居るあなた方に、親切な心で、この真実を、くり返しくり返し、伝えておきたいと思います。実相の神は唯一の神であり、全ての教えは唯一の神に通じる、という事。そして、唯一の神は人格神ではない、という事を、私は語っておきたいと思います。

唯一の、実相の神は、中心神は、地上に、肉体を持って生まれることはないのです。地上に肉体を持って生まれる神は、それは、人々を教化し、教え導くための方便として、神の力の一部が現れて来たのです。

そうして、方便として現れて来た、神の力の一部が、地上に在る時の肉体個性を帯びて、また、あなた方に霊示を送る、という様な事もあるのです。しかし、それは、本来、全てのものではない、という事を、知って頂きたいと思います。

信仰の根本には、中心帰一の思想があり、中心帰一の思想がない信仰は、本物とは言えない、という事を、私は言っておきます。

どの様な教えを学ぼうとも、どの様な宗教を学ぼうとも、どの様な思想を学ぼうとも、中心に帰一する神がなければ、そうした教えは偽物だ、と言ってよい。その奥なる実相の神を信じなさい。それこそが、あなた方の本当の神であるのです。

人格神というものは、それを悟らせ、信じさせ、分からせるがための縁(よすが)としてあるのだ、という事を、あなた方の丁度よき後見人としてあるのだ、という事を、先生役としてあるのだ、という事を知りなさい。

我は、天照大神として、かつて(地上に)肉体を持った者であるが、肉体を持った我(われ)が、天照大神の本質ではない、という事を知リなさい。天照の本質は、大宇宙をあまねく照らしている光そのもの、である、という事を、あなた方に知って頂きたい。そう思うのです。

大天地を、この宇宙を、この地球を、人類を、あまねく照らす光明、これが、天照大神の実相の部分である、という事。その方便の部分としてのみ、私が、今、あなた方に語っている、という事を知リなさい。

これが、信仰の秘密を解く鍵となるのです。

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