ここからは、信仰の意義ということについて、話をして行きたいと思います。
何はともあれ、信仰という事が、何にも増して現代人にとっては(必要な)大切な事なのです。
偉大なる神人が地上に生まれた時には、そうした(神の実在を信じるという)信仰の心が、人々の心(の中)に満ち満ちて来るのですが、やがて時代が下るにつれて、何千年も昔の(実際に地上に在った)事は、神代の時代の(単なる)神話へと変わって行くのです。
人間達の多くは、こうした、神が(実際に霊界に)あり、(霊能者を通じて)語り、そして教えを説かれる、という事を、遥かに昔の時代の(単なる)神話として(だけ)知っている、という事に、満足して(しまって)いるのではないでしょうか。
今、私は「原点への回帰」という事が、何にも増して大切な事であると思われるのです。
原点とは何か。一体、それが何を意味するのか、と言えば、どこに、日本人の根本的な精神の源(みなもと)が在ったか、という事なのです。それは、今から三千年程前の昔に、私や、天之御中主之神が、日本の国にて教えを説いた時代の事、であると言えましょうか。これが、原点への回帰という事でありましょう。
今、『古事記』や『日本書紀』を読んだ方には、必ずしも、この原点が明らかではないかも知れません。と言いますのも、『古事記』や『日本書紀』に書かれている内容が、実は、今から千数百年前の記述である、という事が一つ、いまひとつの事実は、その記紀(きき)が書かれた頃を以ってしても、私達の時代からは、既に、千年以上の時代が流れていた、という事です。
(天之御中主、天照時代の出来事が、)人々の口から口へと語り継がれる、という事(だけ)で、千年以上(も)の時代が流れて来たのです。神話の多くは、こうした(口伝えの)伝承であるために、その内容が非常に不明確となって(しまって)いるのです。
このため、私達(霊界で)は、今から千数百年前に、稗田阿礼(ひえだのあれい)、太安万侶(おおのやすまろ)らを用いて、こうした日本の歴史についての編纂(へんさん)をさせた訳です。この際に、単に伝承をまとめるのみならず、真実の歴史を出来るだけ明らかにしたい、という意図から、(霊能者であった)稗田阿礼に対して、かなりの霊示を送ったのです。この霊示が、高天原(たかまがはら)の神話の中に、様々な形で現われているのです。
ただ、その当時、私達が送った霊示といえども、(伝わった事が)当時の万葉人(まんようびと)達が理解出来る範囲(に限られた事)であったために、必ずしも全てを語り得ているとは言えない部分もありましょう。当時の人達の、神に対する感じ方、考え方を裏切らない範囲で語った、という事を、言えると思います。
即ち、人々は、まだ、人間的なる意識で、神々というものを認識せねばならなかった、ということです。この稗田阿礼を通じて、(当時の人々に)様々な物事を学ばせ、そうして、天上界の事などを教えたものです。
この『日本書紀』『古事記』というものの編纂も、私共の、神理、神道の真理という流れの中で見たならば、一つの、中興運動、立て直し運動であったと言えましょう。けれども、原点への回帰は、まだ十分には為されていないと感じるのです。
原点にあるものは、神話という姿、そこに描かれている神々の姿を、除き去った後に現われるもの、即ち、信仰の真実の姿、神々の心の本当の姿、という事でもあったでしょうか。
結局の所、神話となった『日本書紀』『古事記』の、(その)奥にあるものは何かというと、日本の国において、神の愛される人間像は如何なるものであるか、という事だったと言えましょう。
それは、本来、高天原と、この地上との間には、偉大なる架け橋があり、霊的な架け橋を通じて、様々なやり取りがされていた。神と人間とは、別々のものではなく、神(霊界の人々)と人間とは、共に語り合いながら、まつりごとをし、歴史を創って来た、という事です。ここに、本当の、人類史の秘史がある訳です。
どの時代の、どの民族であっても、必ず神話の時代がありますが、その時には、神と人間とが共に住み語り合う、という世界観が呈示されていると思うのです。その世界観の、本当の有り方は、その神話が創られるような状況においては、数多くの高級諸神霊が地上の事を気にかけている様子を、地上にいる霊的能力者達が感じ取り、見、聴いて、それを他の人々に伝えた、という事なのです。
私達も、太安万侶らの時代に、稗田阿礼を通じて、数々の神示を送り、正しい国史編纂のための助力をしたのです。この稗田阿礼という人間が、やがて、現代日本に生まれ変わって、大本教の教祖となった出口王仁三郎という人間であった、という事を、既に知っている方もいるであろうと思います。
(ここからは)「信仰の意義」という事について、さらにさらに、深く考えてみたいと思います。
それは、まず、第一に、信仰(という事)は如何なる意味を持っているのか、そもそも、どのような意味合いから、それを要求されているのか、ということを語ってみたいと思うのです。
それは、結局、人間が、高天原にいる神々の事を思い起こす、という事である、ということです。また、本来の世界(である霊界)の事を知る、ということでもあります。
本来、自分達が、如何なる(霊的な)世界に住んでいて、その世界から、どの様な使命を持って地上に降りて来たのか、そして、自らの使命を忘れないために、どの様な事をしなければならないか、(ということ)を、心に振り返る、反芻(はんすう)してみるという事。これに大いなる意味を見出す(という事な)のです。
地上に生きる、あなた方は、肉体というものに宿っているために、本当の霊的な存在について深く確信することが出来難くなっていることと思いますが、けれども、心を落ち着けて精神の統一をした時に、そこに、信仰の姿というものが現われて来るように思います。それは、結局、自らの心の中にある、神へと通じる通路を開くという事。普段は閉じている扉を押し開ける事、であると言えましょうか。この意味において、信仰とは、人間が、この世的なる纏(まとい)を去り、本来の神と一つになる、という事だとも言えましょう。
また、信仰について大切な事は、信じるという事が、一つの大きな力である、という事です。
人々は、信ずるという力が、一体、どの様なエネルギーを持っているか、という事を、忘れ去って久しいのです。本当は、地上にある人間にとって、最大の力が信仰の力なのです。一人の人間として為すべき事、為し得(う)る事には限界がありますが、信ずる力によって為し得(え)ないものは何もないのです。
それは、神を信ずるという事において、(創造主は)人間に、全ての道を開く、という力を、お与えになっているからなのです。信ずることによって、その、本来、神の世界にある力が、この地上に解き放たれ、それが、大いなる奔流(ほんりゅう)となってほとばしって行くのです。これこそが信仰の意義でなくて一体何でしょうか。これこそが、信仰の力でなくて何でしょうか。
また、私は、皆様方に申し上げておきたいけれども、高天原の神々の中には、様々な力を持っている方がいらっしゃるのです。それぞれの道での専門家が、数多くいらっしゃるのです。もちろん、宗教家として生きた方が多いことは事実ですが、それ以外の世界にも、政治や、あるいは経済、それ以外にも、文学であるとか、学問であるとか、いろんな所で力を発揮する神がいらっしゃることも事実です。
そうした神は、何らかのきっかけさえあれば、地上の人々を導きたいと思っているのです。地上の人々を救いたいと思っているのです。地上の人々を、より良くしたいと思っているのです。そうした神々は、地上の人々が、心を清くし、そうして、自ら仕事に励んでいるのを見た時に、必ずや、何らかの力を与えてくれるものです。信仰には、そうした大いなる力の原理があるのです。そう思って間違いありません。
即ち、信仰とは、結局、神々と地上の人間との間の、連絡手段でもあり、会議手段でもあり、また、一体となるためのロープでもあるということです。それは、神々は神々で、何とかして、その力を、その目的を、地上に天下(あまくだ)らせ、そうして実現せんとしているのです。だからこそ、そうした事を手助けして欲しいと思っている人達に対して、力強い援護射撃が出来るのです。
ここに、信仰は、一つの完成された姿として立ち現われることとなります。これは、神の自己完結の姿でもあるという事です。地上世界と地上を離れた神の世界とが一体となり円環となって、その中に大いなる愛の力が巡り来たるという事。神の世界と地上の世界が、分け隔てられることなく、その中に、大いなる愛の力が流れて行くという事。循環して行くという事。ここに信仰の意義があるのです。
そうして、高天原に在る神々が、地上の人々を指導することによって、それは神々の単なる自己実現に留まることはなく、その地上にてなした業(わざ)が、やがて多くの人々への愛の奇跡となって行くのです。多くの人々を救って行く力となるのです。多くの人々を救済して行くエネルギーとなっていくのです。
信仰には、こうした、生み出していく力があるのです。何もない所から新たなものを作り出し、大地に種を播(ま)き、作物を育てていく様な、そうした、育む、というものがあるのです。それが信仰です。そこに、大いなる奇跡を見るのです。信仰なくしての奇跡はありません。
信ずる者には、道は開かれて行きます。信ずるという事が一つの呼び水となって、大きな奇跡が起きて来るのです。この奇跡の力を、私は、現代の多くの人に知って欲しいと思います。信じるという事が如何なる力を持っているか。これを知る事が、神の創られた世界の秘密を解く鍵ともなるのです。
この様に、日本の歴史の中においても、私達は、必ずしも、沈黙はしていなかったのです。
そうした事実を、知って頂きたいと思います。
何はともあれ、信仰という事が、何にも増して現代人にとっては(必要な)大切な事なのです。
偉大なる神人が地上に生まれた時には、そうした(神の実在を信じるという)信仰の心が、人々の心(の中)に満ち満ちて来るのですが、やがて時代が下るにつれて、何千年も昔の(実際に地上に在った)事は、神代の時代の(単なる)神話へと変わって行くのです。
人間達の多くは、こうした、神が(実際に霊界に)あり、(霊能者を通じて)語り、そして教えを説かれる、という事を、遥かに昔の時代の(単なる)神話として(だけ)知っている、という事に、満足して(しまって)いるのではないでしょうか。
今、私は「原点への回帰」という事が、何にも増して大切な事であると思われるのです。
原点とは何か。一体、それが何を意味するのか、と言えば、どこに、日本人の根本的な精神の源(みなもと)が在ったか、という事なのです。それは、今から三千年程前の昔に、私や、天之御中主之神が、日本の国にて教えを説いた時代の事、であると言えましょうか。これが、原点への回帰という事でありましょう。
今、『古事記』や『日本書紀』を読んだ方には、必ずしも、この原点が明らかではないかも知れません。と言いますのも、『古事記』や『日本書紀』に書かれている内容が、実は、今から千数百年前の記述である、という事が一つ、いまひとつの事実は、その記紀(きき)が書かれた頃を以ってしても、私達の時代からは、既に、千年以上の時代が流れていた、という事です。
(天之御中主、天照時代の出来事が、)人々の口から口へと語り継がれる、という事(だけ)で、千年以上(も)の時代が流れて来たのです。神話の多くは、こうした(口伝えの)伝承であるために、その内容が非常に不明確となって(しまって)いるのです。
このため、私達(霊界で)は、今から千数百年前に、稗田阿礼(ひえだのあれい)、太安万侶(おおのやすまろ)らを用いて、こうした日本の歴史についての編纂(へんさん)をさせた訳です。この際に、単に伝承をまとめるのみならず、真実の歴史を出来るだけ明らかにしたい、という意図から、(霊能者であった)稗田阿礼に対して、かなりの霊示を送ったのです。この霊示が、高天原(たかまがはら)の神話の中に、様々な形で現われているのです。
ただ、その当時、私達が送った霊示といえども、(伝わった事が)当時の万葉人(まんようびと)達が理解出来る範囲(に限られた事)であったために、必ずしも全てを語り得ているとは言えない部分もありましょう。当時の人達の、神に対する感じ方、考え方を裏切らない範囲で語った、という事を、言えると思います。
即ち、人々は、まだ、人間的なる意識で、神々というものを認識せねばならなかった、ということです。この稗田阿礼を通じて、(当時の人々に)様々な物事を学ばせ、そうして、天上界の事などを教えたものです。
この『日本書紀』『古事記』というものの編纂も、私共の、神理、神道の真理という流れの中で見たならば、一つの、中興運動、立て直し運動であったと言えましょう。けれども、原点への回帰は、まだ十分には為されていないと感じるのです。
原点にあるものは、神話という姿、そこに描かれている神々の姿を、除き去った後に現われるもの、即ち、信仰の真実の姿、神々の心の本当の姿、という事でもあったでしょうか。
結局の所、神話となった『日本書紀』『古事記』の、(その)奥にあるものは何かというと、日本の国において、神の愛される人間像は如何なるものであるか、という事だったと言えましょう。
それは、本来、高天原と、この地上との間には、偉大なる架け橋があり、霊的な架け橋を通じて、様々なやり取りがされていた。神と人間とは、別々のものではなく、神(霊界の人々)と人間とは、共に語り合いながら、まつりごとをし、歴史を創って来た、という事です。ここに、本当の、人類史の秘史がある訳です。
どの時代の、どの民族であっても、必ず神話の時代がありますが、その時には、神と人間とが共に住み語り合う、という世界観が呈示されていると思うのです。その世界観の、本当の有り方は、その神話が創られるような状況においては、数多くの高級諸神霊が地上の事を気にかけている様子を、地上にいる霊的能力者達が感じ取り、見、聴いて、それを他の人々に伝えた、という事なのです。
私達も、太安万侶らの時代に、稗田阿礼を通じて、数々の神示を送り、正しい国史編纂のための助力をしたのです。この稗田阿礼という人間が、やがて、現代日本に生まれ変わって、大本教の教祖となった出口王仁三郎という人間であった、という事を、既に知っている方もいるであろうと思います。
(ここからは)「信仰の意義」という事について、さらにさらに、深く考えてみたいと思います。
それは、まず、第一に、信仰(という事)は如何なる意味を持っているのか、そもそも、どのような意味合いから、それを要求されているのか、ということを語ってみたいと思うのです。
それは、結局、人間が、高天原にいる神々の事を思い起こす、という事である、ということです。また、本来の世界(である霊界)の事を知る、ということでもあります。
本来、自分達が、如何なる(霊的な)世界に住んでいて、その世界から、どの様な使命を持って地上に降りて来たのか、そして、自らの使命を忘れないために、どの様な事をしなければならないか、(ということ)を、心に振り返る、反芻(はんすう)してみるという事。これに大いなる意味を見出す(という事な)のです。
地上に生きる、あなた方は、肉体というものに宿っているために、本当の霊的な存在について深く確信することが出来難くなっていることと思いますが、けれども、心を落ち着けて精神の統一をした時に、そこに、信仰の姿というものが現われて来るように思います。それは、結局、自らの心の中にある、神へと通じる通路を開くという事。普段は閉じている扉を押し開ける事、であると言えましょうか。この意味において、信仰とは、人間が、この世的なる纏(まとい)を去り、本来の神と一つになる、という事だとも言えましょう。
また、信仰について大切な事は、信じるという事が、一つの大きな力である、という事です。
人々は、信ずるという力が、一体、どの様なエネルギーを持っているか、という事を、忘れ去って久しいのです。本当は、地上にある人間にとって、最大の力が信仰の力なのです。一人の人間として為すべき事、為し得(う)る事には限界がありますが、信ずる力によって為し得(え)ないものは何もないのです。
それは、神を信ずるという事において、(創造主は)人間に、全ての道を開く、という力を、お与えになっているからなのです。信ずることによって、その、本来、神の世界にある力が、この地上に解き放たれ、それが、大いなる奔流(ほんりゅう)となってほとばしって行くのです。これこそが信仰の意義でなくて一体何でしょうか。これこそが、信仰の力でなくて何でしょうか。
また、私は、皆様方に申し上げておきたいけれども、高天原の神々の中には、様々な力を持っている方がいらっしゃるのです。それぞれの道での専門家が、数多くいらっしゃるのです。もちろん、宗教家として生きた方が多いことは事実ですが、それ以外の世界にも、政治や、あるいは経済、それ以外にも、文学であるとか、学問であるとか、いろんな所で力を発揮する神がいらっしゃることも事実です。
そうした神は、何らかのきっかけさえあれば、地上の人々を導きたいと思っているのです。地上の人々を救いたいと思っているのです。地上の人々を、より良くしたいと思っているのです。そうした神々は、地上の人々が、心を清くし、そうして、自ら仕事に励んでいるのを見た時に、必ずや、何らかの力を与えてくれるものです。信仰には、そうした大いなる力の原理があるのです。そう思って間違いありません。
即ち、信仰とは、結局、神々と地上の人間との間の、連絡手段でもあり、会議手段でもあり、また、一体となるためのロープでもあるということです。それは、神々は神々で、何とかして、その力を、その目的を、地上に天下(あまくだ)らせ、そうして実現せんとしているのです。だからこそ、そうした事を手助けして欲しいと思っている人達に対して、力強い援護射撃が出来るのです。
ここに、信仰は、一つの完成された姿として立ち現われることとなります。これは、神の自己完結の姿でもあるという事です。地上世界と地上を離れた神の世界とが一体となり円環となって、その中に大いなる愛の力が巡り来たるという事。神の世界と地上の世界が、分け隔てられることなく、その中に、大いなる愛の力が流れて行くという事。循環して行くという事。ここに信仰の意義があるのです。
そうして、高天原に在る神々が、地上の人々を指導することによって、それは神々の単なる自己実現に留まることはなく、その地上にてなした業(わざ)が、やがて多くの人々への愛の奇跡となって行くのです。多くの人々を救って行く力となるのです。多くの人々を救済して行くエネルギーとなっていくのです。
信仰には、こうした、生み出していく力があるのです。何もない所から新たなものを作り出し、大地に種を播(ま)き、作物を育てていく様な、そうした、育む、というものがあるのです。それが信仰です。そこに、大いなる奇跡を見るのです。信仰なくしての奇跡はありません。
信ずる者には、道は開かれて行きます。信ずるという事が一つの呼び水となって、大きな奇跡が起きて来るのです。この奇跡の力を、私は、現代の多くの人に知って欲しいと思います。信じるという事が如何なる力を持っているか。これを知る事が、神の創られた世界の秘密を解く鍵ともなるのです。
この様に、日本の歴史の中においても、私達は、必ずしも、沈黙はしていなかったのです。
そうした事実を、知って頂きたいと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます