天之御中主之神という方の、霊界からのメッセージとされている情報を、続けて転載させて頂きます。
民主主義と呼ばれている、現在の政治の仕組みは、私達が、他の、より良いやり方を殆んど思いつかないほど、現在社会に、浸透、定着しています。このやり方以上のものはないかの如く、私達は、一票の投票という権利を握りしめています。これが、果たして、本当に妥当なものなのか? 決して、そうではない事が、説得力のある根拠で語られています(カッコ内は注釈)。
(ここから)
天皇の話をしたが、さらに、政治の話へと入って行きたいと思う。
今の日本人は、国の教育思想、或いは、教科書による精神的統一によって、民主主義というものを、非常に素晴らしいものの様に考えている様である。
しかし、その民主主義として語られている事の内容は、僅か、ここ百年、二百年の間に起きて来た思想の、一つの運動にしか過ぎない。これを、決して普遍的なものと思ってはならん。
現代の政治を貫く原理としての民主主義は、その根本において、最大多数の意見を聞く、という事であろうと思う。しかし、この原理は、決して、普遍的なるものではない、ということだ。
霊界にも、様々な次元構造があるという事は、あなた方も学んでいることであろう。その中には、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元という様な、世界構造があることも、知っているであろう(次元については、過去の記事にあります)。これで、最大多数の意見を聞けば、どうなるか、という事を、考えてみられたい。
人口としては、四次元の人数が、一番多いのである。さらに、五次元、六次元、そして、頂点に登るほど、人間は少なくなっている。高級霊ほど、数は少なくなっているのである。
こうした世界構造を前提にして、この地上の生き方を考えてみると、最大多数の意見を聞くということは、四次元的支配原理が地上に働く、という事である。地上が混乱している原因は、多数決の原理で政治を運営している、という所に、その根本がある。ここに、大きな誤りがある事を、あなた方は知らねばならない。
多数決は、必ずしも最善の原理ではないのだ。それは、本当の意味での、支配という事を、統治という事を、知らない人達の、やることなのである。
今、地獄に堕ちる人も数多いと聞いている。場合によっては、五割を超えて、六割、七割とも言われている。それが、現代のあり方とも言えようか。そうした、心不調和な人々の、最大多数で、政(まつりごと)を決めた時に、国政を牛耳(ぎゅうじ)った時に、一体どの様になるか、という事を、考えてみなければならない。
それは、この地上において、四次元的なる世界が、単に、展開するだけではなく、もっと、はっきりと言うならば、地獄図が地上に展開される、という事ではないのか。
戦後のデモクラシーが、日本に持ち来たらしたものは何か。考えてみなさい。
それは、アメリカ的な、数の論理であり、そして、また、権利の主張ではなかったか。
世の中を見てみよ。男女同権、それは結構でもあろうか。一人ひとりが主権者、その考えも結構かも知れない。しかし、言葉の、その甘美な響きのみに惑わされてはならない。
一人ひとりが主権者である、とは、どういうことか。一人ひとりが神の子である、という理由なら、それはよい。それは正しい論理であろう。しかし、一人ひとりが主権者であるという事が、一人ひとりが自我のままに生きてよい、という事なら、これは、間違っているということだ。
現代の民主主義は、欲望の民主主義であり、自我の多数決による民主主義ではないのか。こうしたことに対して、大いなるメスを入れねばならんと思う。これに代わるべき原理が、もう一度、摸索されねばならぬ時代が来ていると、私は感じるのである。
さすれば、伝統的な日本の支配原理でもあり、また、孔子などを中心として、中国を支配して来た、長幼(ちょうよう)、歳を取っているか若いかという、年功序列の制度をもって、よしとするか否か。
これも、日本の政治や、或いは、経済、社会、これらの仕組みにおいて、年功序列という事も幅を利かしているであろう。この年功序列という事は、ごく自然に決まった順番を重視する、という事であり、この世に争いをなくす、という意味では、意義はあったと思う。これが、多数決の、競争原理に対置するべき概念としての、自然の序列、安定、という考え方であったかも知れぬ。
ただ、この考えにも問題はあることは事実である。それは、人間は、生年月日によって偉しとはされないからである。何をもって、その人より二年前に生まれた人が、その人の次の年に生まれた人より上に立つ、という理由があるだろうか。白髪(しらが)の数か。顔の皺(しわ)の数か。腰の曲がり方か。そうした事では、この原理は解明することは出来ないと思う。
数の多数決、そして、年齢の長幼の序、これらは、ごくごく単純なる思考を有せる人々の受け入れる所とは、なったかも知れぬが、しかしながら、本当の意味での、実相世界(霊界)を、(地上に)展開し反映している、とは言えぬ。
本当の、この世の原理も、この世が、秩序と、そして、進歩とを組み合わせたものであるためには、やはり、実相界の原理を、実相世界の原理をこそ、取り入れねばならんと思う。
実相世界の原理とは何か。即ち、霊的に悟っている者が他の者を指導する世界である。この原理に例外はないのである。悟っている者が、まだ悟っておらぬ者を指導する、という事が、神の創られた世界の原理なのである。さすれば、この原理を、地上にも導入すべきではないだろうか。
それを地上に導入すれば、いかなる現象が起きるであろうか。それは、こういう事になるであろうと、私は考える。より徳高き人が、未だ徳の発達せざる者を指導する。そういう世界が、求められて来ているのだと思う。
今、政治家を選ぶ時に、この人は徳の高い人だから選ぶ、という様な事があるであろうか。今、例えば、企業の中で、出世の基準を諮る時に、この人は徳高き人だから出世させる、という事が、あるであろうか。そうした価値の考え方が失われて久しいのではないだろうか。
日本人は、もっともっと、この、徳という事、即ち、人望と言ってもいい、多くの人々の、信望と言ってもいい、尊敬と言ってもいい、仰ぎ見る感情と言ってもいい、こうした、高貴なる感情というものを、もう一度、考え直さねばならん。
多くの人々から信望を集め得る人であってこそ、初めて世の中が治まるのである。それは、年齢だけで治まるものではない。それは、多数決で治まるものでもない。お金で治まるものでもない。学歴でもない。それは徳の力である。
もっともっと、この徳の力というものを、これを実在化する論理を、諸君は学ばねばならん。徳というものは、現にあるのだ。徳とは何か。即ち、人をして尊敬せしめる様な何かである。即ち、神近さを感じさせる様なものである。その人の持っているものが、神の性質に近い、という事だ。あたかも、神の代理として地上に出ている様な人。そういう人々が、地上の他の人々を指導して、初めて、この世の中は良くなって行くのだ。
従って、これからの世界を、或いは、これからの日本を変えて行くためには、変革して行くためには、この徳の原理というものを、もっともっと学ばねばならん。もっともっと、多くの人の口に、のぼってよいのだ。あの方は徳のある人だが、あの人は、まだ徳が発達していない。徳をつけるためには、どの様に修行して行けばよいのか。こうした事を、もっともっと地上の人間は、学ばねばならんと思う。そして、徳ということに関して、目が肥えて来なければいけない。そうではない、知名度であるとか、そうした事で、人を、より分けている様では意味がない。
そうしてみれば、現在の、日本の国会議員などは、直ちに辞職せねばならん人が、数多くいるはずである。この、徳というものを持っているかどうかという基準で、ふるいにかけた時に、数多くの人が、そのふるいから落ちるのではないのか。それでよいのである。人をして従わしめるだけの、それだけの信望のない人達、それだけの徳力のない人達は、政治の世界から手を引くがよい。それが、自分のためともなり、他の人のためともなるのである。
その徳望とは何か。一つには、やはり、より多くの人々の幸せを、自分の幸せと同一視する能力、と言えると思う。多くの人々の幸せを自分の幸せと感じ得る能力である。これを徳というのだ。一人でも多くの人々を幸せにする、という事を、自分の誇りとする。これを徳と言うのだ。その人の生き方を見て、他の人々が自然に感化される。これを徳というのだ。
従って、現在の、日本の憲法の、政教分離の原則は、根本から間違っている。これは、根本的に間違っていて、やがて改変せねばならん、と私は思う。その政教分離の原則の中には、宗教というものは悪しきもの、政治を惑わすもの、政治を利用するもの、こうした考え方があると思う。そうであってはならんのである。
政治というものを、それほど、この世的なるものにしてはならんのである。政治は、政(まつりごと)と言う。政(まつりごと)は、神より命じられた者による政なのである。本当の意味の宗教家がいれば、政治家は不要である。こうした原理を、もう一つ、考えてみる必要があると、私は、その様に思う。
決して、現在の様に、学歴社会であるとか、或いは、派閥の政治であってよい訳ではない。そうしたものであってはいけない。やはり、きら星の如く、輝く様な人達が、宰相(さいしょう)となり、政治家となって行かねばならんのである。
そうであるならば、もっともっと徳のある人が選ばれて行く様な、そうした土壌を、養わねばならん。投票という様な、紙切れで選ばれるよりは、寧ろ、徳のある人が、推薦(すいせん)されて、互選されて決まって行く位でよい。そうした方向を、もう一度、摸索してみなさい。
民主主義と呼ばれている、現在の政治の仕組みは、私達が、他の、より良いやり方を殆んど思いつかないほど、現在社会に、浸透、定着しています。このやり方以上のものはないかの如く、私達は、一票の投票という権利を握りしめています。これが、果たして、本当に妥当なものなのか? 決して、そうではない事が、説得力のある根拠で語られています(カッコ内は注釈)。
(ここから)
天皇の話をしたが、さらに、政治の話へと入って行きたいと思う。
今の日本人は、国の教育思想、或いは、教科書による精神的統一によって、民主主義というものを、非常に素晴らしいものの様に考えている様である。
しかし、その民主主義として語られている事の内容は、僅か、ここ百年、二百年の間に起きて来た思想の、一つの運動にしか過ぎない。これを、決して普遍的なものと思ってはならん。
現代の政治を貫く原理としての民主主義は、その根本において、最大多数の意見を聞く、という事であろうと思う。しかし、この原理は、決して、普遍的なるものではない、ということだ。
霊界にも、様々な次元構造があるという事は、あなた方も学んでいることであろう。その中には、四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元という様な、世界構造があることも、知っているであろう(次元については、過去の記事にあります)。これで、最大多数の意見を聞けば、どうなるか、という事を、考えてみられたい。
人口としては、四次元の人数が、一番多いのである。さらに、五次元、六次元、そして、頂点に登るほど、人間は少なくなっている。高級霊ほど、数は少なくなっているのである。
こうした世界構造を前提にして、この地上の生き方を考えてみると、最大多数の意見を聞くということは、四次元的支配原理が地上に働く、という事である。地上が混乱している原因は、多数決の原理で政治を運営している、という所に、その根本がある。ここに、大きな誤りがある事を、あなた方は知らねばならない。
多数決は、必ずしも最善の原理ではないのだ。それは、本当の意味での、支配という事を、統治という事を、知らない人達の、やることなのである。
今、地獄に堕ちる人も数多いと聞いている。場合によっては、五割を超えて、六割、七割とも言われている。それが、現代のあり方とも言えようか。そうした、心不調和な人々の、最大多数で、政(まつりごと)を決めた時に、国政を牛耳(ぎゅうじ)った時に、一体どの様になるか、という事を、考えてみなければならない。
それは、この地上において、四次元的なる世界が、単に、展開するだけではなく、もっと、はっきりと言うならば、地獄図が地上に展開される、という事ではないのか。
戦後のデモクラシーが、日本に持ち来たらしたものは何か。考えてみなさい。
それは、アメリカ的な、数の論理であり、そして、また、権利の主張ではなかったか。
世の中を見てみよ。男女同権、それは結構でもあろうか。一人ひとりが主権者、その考えも結構かも知れない。しかし、言葉の、その甘美な響きのみに惑わされてはならない。
一人ひとりが主権者である、とは、どういうことか。一人ひとりが神の子である、という理由なら、それはよい。それは正しい論理であろう。しかし、一人ひとりが主権者であるという事が、一人ひとりが自我のままに生きてよい、という事なら、これは、間違っているということだ。
現代の民主主義は、欲望の民主主義であり、自我の多数決による民主主義ではないのか。こうしたことに対して、大いなるメスを入れねばならんと思う。これに代わるべき原理が、もう一度、摸索されねばならぬ時代が来ていると、私は感じるのである。
さすれば、伝統的な日本の支配原理でもあり、また、孔子などを中心として、中国を支配して来た、長幼(ちょうよう)、歳を取っているか若いかという、年功序列の制度をもって、よしとするか否か。
これも、日本の政治や、或いは、経済、社会、これらの仕組みにおいて、年功序列という事も幅を利かしているであろう。この年功序列という事は、ごく自然に決まった順番を重視する、という事であり、この世に争いをなくす、という意味では、意義はあったと思う。これが、多数決の、競争原理に対置するべき概念としての、自然の序列、安定、という考え方であったかも知れぬ。
ただ、この考えにも問題はあることは事実である。それは、人間は、生年月日によって偉しとはされないからである。何をもって、その人より二年前に生まれた人が、その人の次の年に生まれた人より上に立つ、という理由があるだろうか。白髪(しらが)の数か。顔の皺(しわ)の数か。腰の曲がり方か。そうした事では、この原理は解明することは出来ないと思う。
数の多数決、そして、年齢の長幼の序、これらは、ごくごく単純なる思考を有せる人々の受け入れる所とは、なったかも知れぬが、しかしながら、本当の意味での、実相世界(霊界)を、(地上に)展開し反映している、とは言えぬ。
本当の、この世の原理も、この世が、秩序と、そして、進歩とを組み合わせたものであるためには、やはり、実相界の原理を、実相世界の原理をこそ、取り入れねばならんと思う。
実相世界の原理とは何か。即ち、霊的に悟っている者が他の者を指導する世界である。この原理に例外はないのである。悟っている者が、まだ悟っておらぬ者を指導する、という事が、神の創られた世界の原理なのである。さすれば、この原理を、地上にも導入すべきではないだろうか。
それを地上に導入すれば、いかなる現象が起きるであろうか。それは、こういう事になるであろうと、私は考える。より徳高き人が、未だ徳の発達せざる者を指導する。そういう世界が、求められて来ているのだと思う。
今、政治家を選ぶ時に、この人は徳の高い人だから選ぶ、という様な事があるであろうか。今、例えば、企業の中で、出世の基準を諮る時に、この人は徳高き人だから出世させる、という事が、あるであろうか。そうした価値の考え方が失われて久しいのではないだろうか。
日本人は、もっともっと、この、徳という事、即ち、人望と言ってもいい、多くの人々の、信望と言ってもいい、尊敬と言ってもいい、仰ぎ見る感情と言ってもいい、こうした、高貴なる感情というものを、もう一度、考え直さねばならん。
多くの人々から信望を集め得る人であってこそ、初めて世の中が治まるのである。それは、年齢だけで治まるものではない。それは、多数決で治まるものでもない。お金で治まるものでもない。学歴でもない。それは徳の力である。
もっともっと、この徳の力というものを、これを実在化する論理を、諸君は学ばねばならん。徳というものは、現にあるのだ。徳とは何か。即ち、人をして尊敬せしめる様な何かである。即ち、神近さを感じさせる様なものである。その人の持っているものが、神の性質に近い、という事だ。あたかも、神の代理として地上に出ている様な人。そういう人々が、地上の他の人々を指導して、初めて、この世の中は良くなって行くのだ。
従って、これからの世界を、或いは、これからの日本を変えて行くためには、変革して行くためには、この徳の原理というものを、もっともっと学ばねばならん。もっともっと、多くの人の口に、のぼってよいのだ。あの方は徳のある人だが、あの人は、まだ徳が発達していない。徳をつけるためには、どの様に修行して行けばよいのか。こうした事を、もっともっと地上の人間は、学ばねばならんと思う。そして、徳ということに関して、目が肥えて来なければいけない。そうではない、知名度であるとか、そうした事で、人を、より分けている様では意味がない。
そうしてみれば、現在の、日本の国会議員などは、直ちに辞職せねばならん人が、数多くいるはずである。この、徳というものを持っているかどうかという基準で、ふるいにかけた時に、数多くの人が、そのふるいから落ちるのではないのか。それでよいのである。人をして従わしめるだけの、それだけの信望のない人達、それだけの徳力のない人達は、政治の世界から手を引くがよい。それが、自分のためともなり、他の人のためともなるのである。
その徳望とは何か。一つには、やはり、より多くの人々の幸せを、自分の幸せと同一視する能力、と言えると思う。多くの人々の幸せを自分の幸せと感じ得る能力である。これを徳というのだ。一人でも多くの人々を幸せにする、という事を、自分の誇りとする。これを徳と言うのだ。その人の生き方を見て、他の人々が自然に感化される。これを徳というのだ。
従って、現在の、日本の憲法の、政教分離の原則は、根本から間違っている。これは、根本的に間違っていて、やがて改変せねばならん、と私は思う。その政教分離の原則の中には、宗教というものは悪しきもの、政治を惑わすもの、政治を利用するもの、こうした考え方があると思う。そうであってはならんのである。
政治というものを、それほど、この世的なるものにしてはならんのである。政治は、政(まつりごと)と言う。政(まつりごと)は、神より命じられた者による政なのである。本当の意味の宗教家がいれば、政治家は不要である。こうした原理を、もう一つ、考えてみる必要があると、私は、その様に思う。
決して、現在の様に、学歴社会であるとか、或いは、派閥の政治であってよい訳ではない。そうしたものであってはいけない。やはり、きら星の如く、輝く様な人達が、宰相(さいしょう)となり、政治家となって行かねばならんのである。
そうであるならば、もっともっと徳のある人が選ばれて行く様な、そうした土壌を、養わねばならん。投票という様な、紙切れで選ばれるよりは、寧ろ、徳のある人が、推薦(すいせん)されて、互選されて決まって行く位でよい。そうした方向を、もう一度、摸索してみなさい。
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