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教育と政治の現状と未来、福沢諭吉のメッセージ、1986年

2020年05月07日 | 思想
先日の、「内村鑑三のメッセージ」という記事の、人物の説明の中の、同志社大学の創立者ですが、内村鑑三ではなく、新島襄という方でした。お詫びして、訂正させて頂きます(記事の方は、既に書き換えました)。失礼しました。

さて、今回ご紹介するのは、その内村鑑三のお話の中にも出て来ました、福沢諭吉という方のメッセージです。いろいろと示唆にもなり、考えさせられる内容となっております。

(ここから)

福沢です。

私が(地上に降りた明治時代に)主として力を注いだのは、やはり、人々の啓蒙、あるいは、学問の普及、教育という問題でした。

誰もが知っている私の書物としては『学問のすすめ』というのが、ありますでしょう。この書物は、当時としては、大変な、今でいうベストセラーとなりました。「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言えり」そのようなことから書き始めた、この文章でありますが、これが、なぜか、明治の時代に、当時としては、百万部も二百万部も売れたわけです。あなた方の時代にも、百万部も売れるような書物というのは、そうざらにはないはずです。

当時の人口からすれば、百万人以上ということは、知識人は全て、ということです。

では、なぜ、この書物が、そのように、多くの人々に読まれたのでしょうか。

これは、単に、作家として私が書いて、それが面白いから人々に読まれた、わけではないのです。

当時、このような霊的な指導が行われるということについては、私自身としては、不覚にも、不明にも、何も知らなかったのですけれども、『学問のすすめ』という書物でさえ、やはり、霊天上界からの指導によって書かれていた本なのです。

当時の日本は、幕藩体制を脱し、新たな近代国日本を造ろうとしていました。こういう時に、何らかの精神的な原動力が必要だったのです。

明治維新の志士たちは、政治的な変革ということに活躍をされました。しかし、私の活躍の舞台は、それとは違ったものでした。彼らは、いわば手荒い大工であり、手荒い作業人であったわけですが、その彼らがやった土台造りの上に、新たな草花の種を蒔くような仕事が、私の仕事でもあったわけです。

私が、この日本という国に生まれる前に、これは私個人の考えではなくて、既に(霊界において)計画をしていたことではあるのですけれど、私は、当時、やはり精神的な水準を高めることによって、近代国家を造っていくべきではなかろうかと思ったのです。そういう意味で、私は、明治の新生日本の国において、何らかの精神的な指導者として自らの役割を果たしたいと思ったのです。ですから、当時の私には、宗教的な自覚はなく、また宗教者的な指導もやりませんでした。

そういうことではなくて、私は、文明開化的な、非常に合理的な考えに基づいて、精神的な指導を行ったのです。それは、また、そうした時代であったからこそ、そのような指導が必要であったわけです。

むしろ、私などは、神仏などは平気で批判し、無視していたようなことが多かったわけです。それは、今となってみれば、非常に大人気ない恥ずかしいことでしたけれども、しかし、時代の要請というものは、いつもあるわけです。時代の要請として、そういった、宗教を説くよりも、むしろ人々を啓蒙する方向に進んだ方が、いい場合もあるということです。

そのような時には、神仏(神霊)は、光の指導者達にも、そのような変った形での役割を果たさせようと(指導)されるのです。

ですから、科学者の中にも、優れた科学者であっても宗教的なことに対して関心を持たない人も居ります。それは、そうした方面が、ある意味において、もとより塞がれているのです。余り、そちらに関心がいくよりは、科学的な方向で、その興味、関心を伸ばしていった方が世の中のためになるという意味で、その方面が塞がれているのです。

私も、明治維新のあの時代に、人々を開明していくという、いわば、古い因習とか伝統から脱するための原動力を、私自身が発見し、それを広める、というような役割だったわけです。

ですから、今、あなた方の時代には、あなた方は、また、霊的なこと、神仏のことを、新たな角度から人々に広めようとしていますが、それも、また一つの啓蒙の手段ですけれども、当時、私達としては、その前段階として、やはり、科学的、合理的な近代主義というものを造っていく必要があったということです。

ですから、例えば、私の『学問のすすめ』自体は、決して宗教的な本でもないし、過去から言われているような、いわゆる道徳的な本でもないのです。あくまでも、自分というものを作るということを教えた書物なのです。

人間は、みな平等に作られています。平等に作られているということは、可能性において平等だということなのです。自らを錬えていくことによって、どのような人間にも、なっていくことが出来ます。これは古い身分制度社会からの脱出、脱皮です。まず、人間に身分の差がある、というような意識が、当時としては大半であったわけです。

いま、日本の国では、あなた方は、そういった身分意識がないでしょう。

まあ、皇族のようなのはありますが、あなた方のうちで皇族として生まれたかった、なんて思う人は、今はいないはずです。恐らく殆んど居ないでしょう。それで、極端なお金持ちが居るかというと、そんな極端なお金持ちも、今の日本には居ません。

まあ、あなた方のうち、大部分の日本人が、今望むことが何であろうかというと、やはり、非常に優秀な人間として生まれたいということだと思うんですね。いまの日本では、頭脳明晰、学力優秀であれば、どのような方面にでも自分の個性を伸ばしていくことが出来るようになっていると思います。

それは、例えば、言葉は悪いですが、どのような百姓の子供であったとしても、あるいは、漁師の子供であったとしても、石工の伜(せがれ)であったとしても、学問を積めば、一国の総理大臣にもなれれば、優秀な科学者にもなれるし、外国で活躍することも出来ると、このような機会が与えられているということですね。

いま、日本の国では、学歴批判、あるいは学力重視というのは疑問である、という言葉が、投げかけられていると思います。この批判を、真っ向から受け止めねばならないのは、実は、この福沢なのです。

この学力、学校、学歴主義の原因となったのは、他ならぬ、この私です。

これは、私が、長年にわたって考えて編み出したものなのです。

今までの身分制社会に代るものは何であろうか。生まれをもって、その人の貴賤が決ったのでは、努力のしがいがないではないか、何のために人間が生まれてくるのか分らないではないか。人間は、その生まれによるのではなく、門地に依るのでなく、その人の努力によって、その人の値打ちが決められるべきである、そういうことを私は考えました。

それでは、近代日本、新生日本において、その努力は、如何なる方向に向けられねばならないのでしょうか。

それを私は考えたのです。

決して、古い宗教家的な努力、山の中に篭ったり、滝に打たれたり、そういった努力で、優れた人間が選ばれるわけではあり得ません。当時は、西欧合理主義が入って来た時代です。やはり、先生は西欧でありました。西欧的な近代化ということを考えていたために、ある意味で、その西欧主義、西欧的なものの考え方、これを学ぶ必要があったわけです。

それを、うまく学んだ人間が、人の上に立てるような世の中、こういった世の中になって行ったわけです。ですから、私は、学問によって身を立てる、ということを人々に説きました。そして、それは、その後、百年間の、日本の、日本人の行動指針となったはずです。

私は、必ずしも、これが総てとは思いません。ただ、その後百年間の日本の動きを見ていると、私の説いたことも、八割は正しかったと思っています。その高度な学力、教育によって、日本人は、優秀な人々を、人材を、世の中に送り出し、それが、各産業界での活躍となり、また、諸外国へも、現在、影響を与えるようになって来ているのではないでしょうか。

そういう意味で、現在、強く批判されて来ては居りますけれども、私は、まだ、これも、次に新たな物差が見つかるまでは、しばらくの間は、有用な物差、規準であると思うのです。

次に(今日起きて来ていると言われる)学力学歴偏重という社会的問題ですが、これについて私の意見を言って置きたいと思います。

問題は、学力や学歴を偏重することではなくて、むしろ、人々が結果主義に陥っているということなんです。結果として成功すればよいのだけれども、成功しなければ元も子もない、という考えが裏にあると思うのです。

けれども、そんなものではないのです。この世の中で人間が努力したことは、決して報われないことはないんです。無駄というものはないのです。

例えば、一生懸命、受験勉強したとしましょう。希望の第一志望の大学に入れなかったかも知れない。第二志望にも入れなかったかも知れない。その結果、その人は、世の人々が羨むような職業には、就けなかったかも知れない。けれども、その人が一生懸命勉強したことというのは、決して無駄にはなっていないのです。

結果主義で物事を見るからこそ、無駄に思えるだけであって、では、そういった第一志望、第二志望の大学に入らないからといって、当初から、じゃあ、そういう希望を持たない、だから、勉強しないで、現在あるがままの自分になっていたとして、努力した結果、駄目で、現在の自分がある、のと、努力しないで、現在の自分があるということ、と、出ているものとしては一緒かも知れない、結果としては一緒かも知れないけれども、別な観点から見ると、これは非常に違うのです。

学習においては、無駄というものは何もないのです。いわんや、魂の学習においておや、です。人々が学問に励むということは、その学問的な達成度によって、世の中の道を切り拓いていける人も居るでしょう。それは成功者です。しかし、成功者でない方も多いと思います。

けれどもね、そうした、知識を得るということは、永い転生輪廻の過程の中で、魂の学修としては、非常な意味を持っているのです。

大部分の人間は、これまでは、大抵、農業とか、あるいは、武士のようなものとか、あるいは、漁師とか、そういった非常に原始的な職業をやって来た人達が殆んどなのです。このような方々が、近代の文明国に生まれて、初めて学問というものをやり、新しい世界観を得ることが出来たんです。

学問というのは、ある意味において、世界観の獲得なんです。この地球、地球の中にある様々な国、様々な人種、その中に、どのような思想があり、どのような学問があるかということを、皆んなが学べるような時代になった、ということなんです。

これはね、結果としては、そういったことを勉強して、大臣になれなかったり、医者になれなかったりするけれども、それを学んだということ自体は、非常に素晴しいことなんです。

過去、何回か生まれ変って、得ることが出来なかったようなものを、一回の人生において得ることが出来たということなんです。ですから、私は、今の学力、学歴偏重に対する批判に対する、反批判としては、結果主義に陥ってはならない、ということを言いたいと思います。

人生において、無駄というものはないのです。それは、何もないのです。では、英語なら英語の勉強、一生懸命して、何かの試験に通らなかったからと言って、では、その英語の勉強をしたことが、果たして無駄になるでしょうか。

そういった学問、新たな外国の学問をやることによって、様々なことを見聞することも出来るようになったろうし、その人間、無駄なことは何もないのです。学修するということに無駄は一つもないし、その結果、本当の意味での結果において、落伍者は一人も居ないということなのです。

入試制度と、それによって生じる職業選択の不平等、という事についてですが、それに関しては、二つの面から検討が出来ると思うのです。

一つは擁護論ですけれども、例えば、美術の学生ですが、今までは、好きな活動だけをやっておれば、それでよいという考えがあったかと思いますけれども、これからの画家というものを考えてみると、舞台は非常に広がっていくわけです。

日本の中でも、画家でも、一流になってきますと、各界の人とも話をしなければいけない。また、海外に行って絵を描いたり、展覧会に絵を出す機会も増えてくるわけです。そうすると、この時代における常識は、やはり身につけておく必要があると思うのです。

受験勉強のようなことになると、非常に(話題としての)レべルが落ちるようにも聞こえるかも知れないけれども、ある意味では、これは、今の時代における常識の獲得、ということなんですね。ですから、まず、優れた人間である前に、常識人であれ、といった考えもあるわけです。

絵だけ描いて、絵がうまくなりましたと、では、次には、パリの何とか祭に出て、絵についての議論しましょう。芸術論をやりましょうといった時に、『私は職人です、絵は描けますけど他のことは分かりません』と、これだけでは通用しない世の中になって来ていることも事実なんです。

そういう意味で、傑出した人物になる前に、まず、常識人として自分を確立しなさい、と、方法論としては、これは正しいことである、と私は思います。

もう一点、これは別の観点からですが、これは、いま私が言った自分の説に対する反論のように聴こえるかも知れませんが、今の日本に欠けているものは、逆に、何かといいますと、天才教育です。

私は、平等ということを説きましたが、本当は、人間の能力に差がないという意味ではないのです。しかし、そういった差を強調することは、新たな、人々の間の(意識の)不平等を生み出す元となりますから、やはり、スタートラインは、仕切り直す必要があったということです。特に、明治のような、新たな学問が入って来たような時代においてはね、誰もが、それを学んでなかったわけです。

ある特定の家に生まれたから学問が進んでいる、ということはないわけですね。新たな学問が西洋から入って来たわけですから、皆さんが同じスタートラインに立ったというわけです。そういう意味では、まあ、能力的に賢い人が居たにしても、新たな学問を吸収しなければ何もならないわけです。能力的に劣っていたにしても、新たな学問を吸収することに努力すれば、他の人が達し得ないような知識を得ることが出来た、という時代だったわけですね。

ところが、今では、かなり学歴化も進みまして、教育環境も変ってきました。そして、能力の差というのは、非常に出て来たと思うんです。で、必ずしも、この能力の差というものは否定いたしません。あるでしょう。それで、今の日本の教育では、逆にこの平等主義ということが非常な弊害になっているかと思います。

文部省(当時)というところがあって、全て同じような教育内容で、人々に教育しているわけですね、けれども、まあ、それは、三歳や四歳の時、あるいは、七歳、八歳の時には、それ程、各人の能力に差はないかも知れません。けれども、十代の後半になると、その差は、非常に甚だしいものとなっているんです。

その、百万人なら百万人、百五十万人なら百五十万人が、同じ年齢で、同じ学習内容を(学習)するということは、これは、本当は、理に適ったことではないのです。やはり、各人、遅い早いはあると思いますよ。どちらが優れているとは申しません。ただ、その内容に差はあると思うんです。そういう意味で、現在の六、三、三、四制ですか、こういうものは、見直さなければならない時期に来ていると思うんです。

これは、年齢によって、年齢、(それは)ある意味での平等観ですね、十八歳にならねば大学に入れないようになっていますね。十八歳以降なら入れるけれども十八歳までは入れない。これは、ある意味において、おかしいと私は思うんです。

昔は、例えば「吉田松陰先生」のような方、こうした天才肌の人は、もう、十代においても、普通の大人がやらないような知識を得ることが出来るんです。(今は)こういった天才を見逃すような世の中になっている、ということです。

天才を生めないんです。そういう意味では、全部の人には当てはまらないけど、ごく一部の人のために、天才を磨くための道というのが開かれなければならないと思います。

そういう意味では、絵が描ける人という、本当の天才みたいな人が、例えば、高校三年間をおえて、数学も、英語も、理科も、社会も、何もかも出来ないと美術大学に入れない、というのであれば、それは、惜しいといえば惜しいんですよ。

例えば、絵の天才が居れば、もう中学校からでも大学に入って、専門の絵の勉強がやれるような時代であれば面白いと思うし、音楽の天才なら、もっと早くてもいいですね。もう十代の前半で、大学で音楽の専門の勉強ができるような、そういう素地があればいいと思います。

その人が音楽の天才であるにも拘らず、例えば、田舎の町に生まれたとしましょう。小学校や中学校の音楽の先生では、大した(音楽指導の)能力も才能もありません。彼らは、天才を開発するだけの力はありません。じゃあ、その田舎の町なり村に、それだけ優れた音楽的施設があるかといえば、ありません。その家が金持ちであれば、また別の道もあるでしょうが、普通の家の子であるならば、その才能は、適当な時期が来るまで、どうすることも出来ません。こういったことは惜しいと思うのです。

ですから、逆の方法も一つ考えていいと思うのです。そういう特殊な能力で天才的なものを持っている人は、早期に、年齢にかかわらず、一気に専門教育に入っちゃうわけです。で、例えば、その代り、逆にするわけです。そういう専門教育をやって、後、補習の形で、一般常識というものを身につけて頂くようにするわけです。

十代なら十代で、もう十代の前半で大学に入れる。美術大学に入れる。それで専門の勉強が出来ます。ただし、大学に居る何年かの間に、そういう一般常識を、高校で習うような課程も、併せて補習を得るような形で、段々に単位を取っていく、こういった勉強の方法ですね。これ、大事なんじゃぁないでしょうか。で、それを取ったら大学は卒業できると、しかし専門教育は早期に開始する。

あるいは大学の年限も、そういう十代前半に入った天才のためには、今の四年制じゃなくて、七年でもいいと思うんです。芸術教育、専門領域の教育をやって、残り卒業までの間、自分の腕を磨きながら一般常識を獲得していく、こういった方法でもいいんじゃないですか。

今は、前提条件が満たされなければ、後の部分が出来ない、というような形ですが、逆でもいいんじゃないかと思うんです。専門領域をまず伸ばして、それを勉強する。そして、後、順番に、補習の形で取っていく。

あるいは、大学の四年間で専門の勉強をして、卒業させてしまって、卒業後に、高校時代のカリキュラムのような、とり損ねたかも知れない数学でも国語でも何んでも、そういった学習科目を、生涯教育ということで、少しずつ埋めていくわけです。取っていく。こういうことによって、後から追加的に、ちゃんと卒業の資格が得られるような、こういったものでもいいです。

今、私が二つの異なる意見を言いましたけれども、一般論としては、優れた人である前に、常識人であれ、ということです。これは説かれなければいけません。

ほかに才能があっても、こんなに学校に縛られていては何んにも出来ない、と言っている人が多いのですが、大抵の場合は勉強をするのが嫌いなのです。それだけのことなんです。じゃあ他のことをやらせれば、それだけの才能があるかといえば、まあ、そういった根気もない人が多いんです。そういった人が、言い訳でね、よく言っているんです。こんな詰め込み教育じゃあ才能が開かない、なんて言っているのは、大抵は言い訳なんです。ですから、そういった大部分の人に対しては、まず優れた人になるよりは、常識人となれということです。

ただし、本当に天才的な人が居ますから、そういった人に対しては、年齢制限なしで、自由に能力を引き出せるような制度も作っておく必要がある。これは国家の義務です。今の六、三、三、四制は、必ずしも万人に適用させる制度ではないということです。

また、今、別な観点から一つのことを申しましょう。

これは、問題は、十八の春、あるいは二十そこそこの段階で、人生の道筋が決ってしまうのが、どうかという考えがあると思うのです。比較的若い年齢で、学問学修を了えて有利な道に乗れば、昇進していける。あるいは、大会社へ、あるいは社会の重鎮へと進んでいける、というような道筋がありますが、これに対し、あなたは疑問を持っておられると思うのです。

人間は、早咲きの人もあれば、遅咲きの人もあると、こういったことに関して、どう思うのかと。例えば、経済的な不幸などは、いま少なくなって来ているかも知れないけれども、家庭環境において、子供を必ずしも大学に出せないような家庭も、ないとは言えません。そういう人が(就職して)働いている。働いているうちに、やはり、もう一回勉強して出直したいな、と思った時に、勇気を奮い起こして大学に入り直して、じゃあ就職できるかというと、もう殆んど出来やしない。こういった問題があるわけでしょう。恐らくそうですね。

いま、三十代半ばで発心して、何処かの学校へ行って学び直しても、それを生かす道がない、ということが現状ではないでしょうか。こういったことに対して、社会は、もう少し寛容でなければならないと思うのです。

大学の新卒だけを採用するという、今の企業のやり方、二十二、三で採用して後、定年まで同じ所に止まっているという考え方ですね、これを改め直さねばならぬと思います。

いま、定年まで居るということが段々少なくなって来て、途中で転職するなり、独立するということが増えて来ていますが、やはり採用ということにおいては、いまだに、その線が守られていると思うのです。まあ、高校卒で採用する場合には、十八歳ですね、短大卒は二十歳、大卒は二十二、三と、いうことで線引きがされていて、それを逃がすと、たとえどんな優秀な人であっても、就職の道は厳しくなっております。これは、日本的な年功序列の制度があるために、年を取った人を新しく雇い入れるということは、非常に、その会社の中で、使いにくいというようなことが起因していると思うのです。

これに関して、やはり、もう少し多様な世の中というものを、考えていかねばなりません。人間は、年齢だけで決っていくものではありません。だから、年を取っているけれども新卒で入って来る人を(通常の)新卒と同じように扱うのは難しいということでありましょうが、そうではなくて、もう少し、その人が持っている知識なり、技能なりに対して、一定の認定をしてあげなければ、いけないと思います。専門家として雇い入れるというわけですね。こういったことを、もう少しやって、企業が、寛容性を持たねばなりません。

社会に対してもそうです。公務員もそうですよ。四十歳、五十歳から公務員にはなれません。けれども、考えてみなさい。民間会社で、まあ、四十歳、課長さんなら課長さんを勤めたとしましょう。非常な経験を積んでいます。様々な業種において、役所では積めない様な経験を積んでいるわけです。そういった方が、やはり、私は公僕として、国のために、あるいは地方公共団体のために尽したいと、例えば、四十歳で思った時に、それが実現できない世の中ですね、今は。

こういったことがいけないと思うのです。例えば、四十歳なら四十歳で、公務員の試験なら公務員の試験があってもいいと思うのです。それで受けて受かれば、同じような地位で採用する。例えば、公務員として課長職で採用できる。

こういった新しい血を入れるということは、役所の中でも決して無駄なことではないはずです。こういった制度が、段々出て来なければいけないと思います。そう、あなたは思いませんか。やはり、その人の達成度に応じた処遇が出来るような世の中になっていかねばなりません。

(理想や議論を現行制度の改革に具現化することが難しいのは)制度的なものに基因するという考えもありますが、やはり、私が思うに、今の日本の教育家の中に、第一級の人物が少ないということが大きいのではないでしょうか。優秀な方々というのは、殆んどが他の方面で活躍されて居られるのです。残念ながら、教育界においては、第一級の人物が少ないということなのです。ですから、そういった教育に関して、国民的な(認識の)基盤を揺がすような、そういった影響力を持った教育家が、今後、出て来なければいけないということなのです。

その人の意見ならば、成程、確かにそうである、と。そういった方向に動かねば、世の中は間違っている、と、こういったことですね。教育に関しての専門家なんですから、専門家の意見が、国民をして頷かせるようなものでなければいけないのです。

そういう意味では、今、例えば、教育学部というのが大学にあるはずです。国立の大学(当時)にも、私立の大学にも教育学部というのがあります。では、今の青年達で、教育学部に行っている人達は、一番優秀な人達が、果たして行っているでしょうか。私はそうは思いません。

今の世の中では、理科(系)の人は、医学部に行ったり、あるいは工学関係に進んだりしています。文科(系)の人に関しては、殆んど、優秀な方は、法学部、経済学部の方向へ行っております。文学部というのは、殆んど、女性とか、あるいは、就職は殆んど考えていない人が行っております。このようなことでは駄目なのです。

世の中を変えていこうと考えている人が、教育学の方向へ進んでいってくれる方が望ましいのです。

そういった、世に立っても、事業やっても第一級の人間として活躍できるような人が、教育の現場で頑張って、初めて、世の中が変わって来るのです。要は、そういった人を、引き付けるだけの魅力が、今の教育者達にないということなのです。

それは、教育の中で、人格教育というのが言われなくなって久しいことと関係するのです。教育者の中で、本当に日本人全てを啓蒙するような、尊敬されるような方が出て来ると、後に続く人達も出て来るのです。

ですから、私が言いたいのは、要は、政治のようなものによる制度(を作ること)ではなくて、人なのです。(大事なのは)優れた教育家が出て来ること、第一級の教育家が出て来ることです。

もう一つ、今言ったことに、私は付け加えておきますけれども、教師というもの、人を教える人というものは、真理を獲得していなければいけないのです。真実のものを掴んでいなければいけないのです。

いま、あなた方が考えて、一部狂信的な左翼の方々の思想は、果たして真実を掴んでいると思いますか、私にはそうは思えません。一部左翼の人々は、社会に対する不平不満のはけ口がないために、共産主義とか、マルクス主義とかいった名前を冠したものに事寄せて、不平、不満を吐き出しているということに過ぎないのではないでしょうか。

自分が、そうした不平、不満の塊りでありながら、純真な子供達を、果たして、どのようにして教育することが出来ましょうか、それは非常に難しいことです。教師を、単なる労働者までに貶めた、その責任は大きいということです。もし、そのような方々が、私の言っている言葉を聴いて下さるのならば、私は、この場を借りて言って置きます。

教師は、やはり聖職です。聖職という言葉は、響きが悪いかも知れませんけれども、やはり、人を導くべき人というのは、ただの人間であってはいけないのです。神を目指す人でなければいけない、神と言ってはいけない、では、天と言ってもいい、宇宙といってもいい、そういった宇宙の進化、創造の法則のもとに、自らの使命を果たす人でなければいけない。

単なる労働者なんかではない。教師というものは、自分の使命を果たしている人である。神より与えられた使命である。教育という大きな使命、人々を啓蒙教化するような使命、これは大きな人扶けということです。人作りということです。このような使命は「聖使命」であります。聖なる使命であります。

聖なる使命を果たさずして、賃金上げのストライキばかりやっているようであるならば、あなた方は、職を辞しなさい。プライドを捨てる人間であるならば、そのような職は辞しなさい。あなた方は職業選択を間違っているのです。職業を変えなさい。その方が世の中のためになります。

よろしいですか。人権というものは、そんな薄っぺらなものではないのです。人権という名を借りて、自分のエゴを振りかざしているようでは、教師たる資格はないのです。そのような人は直ちに教師を辞めなさい。私は、この場を借りて、はっきり言って置きます。

昔は、百年前、二百年前、三百年前、江戸時代でも結構です。教師となるべき人は、今の教師となっている人達よりも、遙かに優れた人達であったのです。よろしいですか。昔はね、誰も彼もが勉強する時代ではなかったのです。そういった時代に、自ら克苦勉励して学問を積んで、初めて、その得たものを人々に分け与えようとした姿が、教師であったわけです。そのようなのが、元々の教師であった。

ところが、今は、一定の資格試験をとれば、後は月給をもらえる、という生活です。要するに、教師の中に真情が足りないんです。どのようなことが本当の教師であるか、ということですね。水は高きから低きに流れて行くのです。高い所から低い所へ流れて行くのです。低い所から高い所に流そうとしても、それは無理です。教師というものは、自ら得たものを後に続くものに分け与えていかねばならないのです。そういう意味において優れたる人物でなければいけないのです。

先程、第一級の人々が教師となろうとしていない、と私は申しました。正(まさ)しく、そこが問題なのです。教育というのは、第一級の人物が教えて、初めて生きて来るのです。ところが、今の教育界においては、教師は、一つの、何んといいますか、専門職なのですね。たかだか英語を知っている。たかだか数学ということを知っている。そういった専門知識を得て、それを受け売り、切り売りしている、というのが(今の)教師の姿ではないでしょうか。

そうではなくて、本当の意味で、学問の魂に推参することが出来るような人が、初めて、人を教導することが出来るということなのです。

ですから、政治家がどうこうとか、いろいろ言われますが、また賃金が低いというような意見もあるでしょう。賃金が低いのは、あたりまえです。私の言葉は、きついかも知れないけれども、あたりまえです。なぜなら、教職に就いている人達が、第一級の人達でないからです。彼らが、もし第一級の人達であるなら、もっと収入のある道を選んでいるのです。現代においては、大会社なり、自由業なり、もっと収入のある道を選んでいるんです。そういった方々は教職に就いていないのです。教職員になっている人達は、もう、他にするべき仕事がなくて、やむを得ず教師をやっている人が多いのです。生活の安定だけのために。このようなことであるからこそ、安月給で働いているのだ、と、私は申して置きます。よろしいか。

彼らに言っておきなさい。あなた方が生活環境に不平不満があるのは当然です。なぜならば、あなた方は、他の選択肢があるにも関わらず教師を選んだのだからです。一流会社で重役になれるかも知れない、大学教授になれるかも知れない、あるいは、科学者になれるかも知れない。そのような豊富な能力を持ちながら教師を選んだのではなかったはずです。よく自分の胸に自問自答してみなさい。他に選ぶべき道がなくて、仕方がない、教師でもやるか、と言って選んだ方が大半であるはずです。

どれだけの使命感に燃えて、今の職業を選んだか、どうかを、よく考えてみなさい。自分らの職業が悪いのであるならば、あなた方が第一級の人物でなかったか、あるいは、現在の職業を選んで以降、第一級の人物たるべく努力をしなかったということです。

教師というのは、振り当てられた時間割の中で、科目を教えているだけでは駄目なのです。それ以外に、あなた方に、一体何があるかということです。プラスアルファがあるかということです。

あなた方が教えている科目をはずして、それ以外に、人間的に、あなた方が、一体どれだけのものを獲得しているかです。授業を離れて、あなた方は一体何をやっているか、どれだけの人間修行をやっているか、修養をやっているか、どれだけの、それ以外のことを語れるのか、どれだけの人生観、宇宙観があるのか、よくよく自問自答してみなさい。そういった時に、如何に自分らが薄っぺらな人間であるか、ということに気が付くはずです。

要は、教育の問題は、第一級の人物が、今、教師になっていないということであり、教師が、職業に不平不満を持ち、また、給料や処遇に対して、日教組が言うように不平不満を持つのは、彼らが一級の人物でないからです。彼らが優れた人物であるならば、社会の他の方面で活躍している人達が教職につくような現状であるならば、給与も待遇も良くなるのはあたりまえです。それだけ遇しなければ、それだけの人物は集っては来ません。よく自分の脚下を見直しなさい。そう言いなさい。彼らにそう言って置きなさい。

日本における私塾の発達という事ですが、やはり進学競争にうち勝ったものが優位な地位を築けるというようなことで、欲得がからんで発達している面も多いと思います。ただし、私は、その私塾の中に、一つの可能性を見い出すのです。この中で、また個性ある人達が、様々な新しい教育を、人物教育なり、人格教育なり、あるいは才能教育などをやってくれるような時代になって来るならば、新たな展開が出て来るのではないかと期待しています。

ただ、その様な時代には、そういった特色ある私塾で学んだことが、何らかの意味で、社会において、その人の肩書というか、プラス要因、勲章になるような世の中でなければ、意味は少ないと思います。ある所で、例えば人格教育塾をやっているとします。そこに小中高生が通っているとします。そこに居たということが、少なくとも世の中から評価されるような、そういったものでなければ意味はありません。

また、これも、先ほどの教師の例と一緒ですけれども、塾をやる人、塾を経営している人達というのは、どちらかというと、社会から落伍した人達が多いように思います。社会の組織からはみ出して来て、やることがなくて塾をやっている人が多いように思います。これも、また一つの問題があります。ここに第一級の人物が私塾を開いたならば、その声号は非常に高いものとなるでありましょう。

こういったことにおいて、古代のギリシャ時代のソクラテス達が開いた私塾のようなもの、あるいは、吉田松陰先生が開いたような私塾のようなもの、こういった、原点に帰る塾というものが必要かも知れません。それは、そこに居た教師が、また超一流であったということです。

人が人を求めるのです。人物が人物を呼ぶのです。要は、塾という形体自体が優れたかどうかというのではなくて、やはり、そこで教鞭をとる者が、如何に優れた人物であるか、ということです。それならば、人々は引き寄せられてくるはずです。

今の学校教育においても、問題点の一つはそこだと思うのです。どこの学校には、ああいった立派な先生が居るから、あの学校に行って勉強しよう、という声が聴こえないはずです。そうではないでしょうか。高校選びにしてもそうですね、進学率が高いとか、どうとか、そういったことはあるかも知れません。けれども、あの学校だと、ああいった先生が居るから、あの学校で学びたい。大学選びもそうです。弟子は師を選ぶのです。弟子は師を選び、師は弟子を選ぶというのが、本来の学問の姿です。

ですから、今、あの先生の下で学びたいから、というような先生が、果たして居るかどうか、そして、あの先生の下で学びたい、というような学生が、居るかどうかです。教育の原点を忘れているのです。大量生産ではないのです、教育は。

やはり、人から人へと伝わっていくのが教育です。ですから、学校教育において、今、あの先生の下で勉強したい、という人が減っているのならば、組織的に、そういったことが無埋なのならば、私塾なら私塾でもよろしい。あの先生の下で学んでみたい、というような、学生を集め得るような私塾を開くということです。そういった先生になるということです。

今、私は、松下幸之助さんが、一つの塾、学校を造られたと聞いております。「松下政経塾」というのですか。それで、政治家とか、将来嘱望される若者達を、資金援助しながら教育をしている。第一線の講師を選び、呼んで、教育をやっているはずです。ああいうのが、本来の塾、本来の学問の姿なのです。

本来、こういった人の下で学びたい、こういった趣旨のもとで学びたい、という人が集まって、学び、また、そういうやる気のある学生が集まって、また、そういった学生が居るからこそ、よし、俺が行って教えてやろうと、第一線の方々が教える、と、これが本来の学問の姿なのです。こういった形の私塾、あるいは、私学というものが、今後、益々発展してくることを、私は祈ってやみません。

政界、教育界、両方共に、第一級の人物が出て来る必要がありますし、私も出そうと思っています。(今後)私の居る世界から、第一級の教育者を送り出そうと思っています。

それと、今、先ほどのことに関して追加いたしますと、「松下政経塾」ですか、そういったことに対して、私は意見を述べましたけれども、大事なことだと思うのです。

今の政治家も、経歴を見てみなさい。まあ、様々な経歴をして居りますけれども、やはりね、思うに、政治家となるべき資質を開花するための教育というものは、ないわけです。そうでしょう。皆、勝手勝手に、様々なことやってきて、たまたま当選して代議士をやっているというのが殆んどだと思うのですが、そうではないでしょうか。

ですから、もう少し、例えば、政治家養成のための学校があってもおかしくないのじゃないでしょうか。私はそう思いますよ。それは、私塾でもいいし、官学でもよろしいし、政治家養成のための学校があっていいじゃないですか。一般教育を二年か三年やってですね、その後、政治の専門家として養成する必要があると思います。三年か五年、特にやりたい人、国家が選抜して、一学年、五十人か百人で結構です。少数でいいと思います。

そういった大学を創ればいいのです。そして二年間ぐらいは一般教養なり教育をする。その後、世界の政治なり、経済なり、教育なり、様々な分野のこと、科学技術のこと、いろんなことを勉強してもらうわけです。そうして、初めて、政治家になるための、例えば、国家資格、政治家になるのに国家資格を設けるというのも面白いと思います。そういった、政治家となるべき資質、そういう教育を得て、初めて資格を得るということです。一定の資格を取ったものは政治家になれる。

そして、政治家になる条件は、勿論、国民による選挙ということです。今は、誰でも立候補したら通りますが、こういうことを言って名指しになっては失礼になるかもしれませんが、テレビなんかで名前の知られている、顔を知られているというだけで大臣になった、とは言いませんがね、少なくとも、ある分野の政治のトップになったりすることは出来るわけです。彼らは、それだけの知識なり技能なり能力を持っているかと言うと、私には、そうは思えません。人気投票みたいな所があるわけです、多分に、今の政治には。

ですから、こういったことに関して、プロの政治家というのも必要ではないでしょうか。ですから、国家資格みたいなのがあってもいいかも知れません。全員そうであれとは言いません。けれども、政治家となるべき基礎知識は、今の時代には必要ですよ。これだけ社会が進み、全世界を股にかけている世の中で、たまたま土地の何処かと癒着したり、あるいは大地主であったり、お金持ちであったりするだけで政治家になれるようでは困るんです。あるいは、隠居仕事で政治やられたんじゃあ困るんです。

国家資格にすればよろしい。これも、政治家になるための資格ですね、その大学を、先程言いましたように、十八歳で入学して二十二で卒業するだけである必要はありません。三十代でも四十代でもいいと思うんです。

例えば、会社に勤めておりました。貿易をやって居ました。例えば、公務員をやっていました。例えばですね、自由業をやっていました。これでいいんです。医者でもいいですよ、例えば、医者をやっていました。四十歳まで医者をやっていたけれども、自分の適業は、やはり医者ではないみたいだ、国の政治というものに参加してみたいと、例えば、こういうことを思ったとします。それで、今の世の中であれば、例えば、その知名度が高くて立候補して当選すれば、それで政治家になれるんです。そうですね。

けどね、これを、やはり、それなら「政治家養成学校」に、四十なら四十で入れるようにしておくわけです。それで、一定の、政治家となるべき基礎科目、これを修得して、初めて資格を得られるようにしておくわけです。そうすれば、日本の政治家のレベルが、ある程度上がると思います。

今、レベル低いでしょう。国会の場を見れば分るように、本当にレベルが低い発言ばかりが飛んでいます。権力集団です。ある意味では、猿山の勢力争いのように見えるはずです。ヤジが飛びます。ああいったもので、国民は、果たして、尊敬の念、信頼の念を持つでしょうか。

それは、政治家としての基礎学修が出来ていないのです。それは、学問でもそうですし、それ以外に、例えば、政治家としての基礎とは、スピーチの仕方、話し方の教育も必要です。また、礼儀作法についても必要です。こういった様々の世の常識というものを身につけておく必要があります。こういった教育、やってもいいじゃないですか。どうですか、欠けていると思いませんか。全員とはいいませんが、少なくとも何割かは、そういうプロの、養成された政治家であっていいはずです。

(政治家が「賢人会議」の推せんを受けるべきだということを、あなたが言われ)、私は専門家教育ということを言いましたが、趣旨は一緒だと思うのです。政治家の底を上げなければいけないということなのです。政治家たるべき資格要件というのは、今、何もないでしょう。年齢だけですね。何歳以上になったら衆議院議員になり、参議院議員に出られると、年齢条件だけしかないでしょう。それ以上、何んにもないでしょう。日本人である限り、これではおかしいというんです。

やはり、世の上に立つべき人であるならば、それなりのものを備えていなければいけないということです。

ですから、いま言ったようなことでもいいと思うんです。例えば、五割の人が、そういった政治家養成の学問所、大学です、これは若い人でなくても、勿論、途中から入り直した人でも結構です。そういったもので一定年間勉強する。三年なり四年なりです。政治、経済、世界のこと、教育界のこと、様々なことを勉強して頂く、哲学のことも勉強して頂く。それを出て、で、資格を得て、まあ、そのうちの何割かは、例えば、そのまま当選してもいいし、あるいは、投票によって当選しても結構です。そういう方式をとる。

例えば、残りの五割なら五割は、そういったものを経なくとも、「賢人会議」なら、賢人会議というものによって推せんされた人が立候補する。そして一定数の得票を得れば政治家になれる。こういうふうにすれば、それはレペルは物凄く上ります。

特に若い人はね、比較的若い人は、そういった政治家養成学校で勉強されたらいいし、一定の社会的な地位を得られている方、もう五十代、六十代になって、その道で、ひとかどの人物として世に認められている人々を、もう一回教育し直すというのも、これも考えものです。これは、かなり無駄が多いでしょう。こういった人に対しては、いわゆる「賢人会議」の人達が推せんをして、推せん受けたならば立候補できると、こういう形にすれば、政治家のレベルは非常に上って来ます。それで、政治家達も、いわゆる哲人政治家に近づいて行くでありましょう。

また、政治家になるということが、国民達にとって、政治家は、非常に信頼と尊敬の的になってくるでしょう。政治家になるためには、やはり優れた人達の推せんもいるのだな、あるいは、特別の勉強をちゃんと経て、常識を得ていなければならないのだな、となると、政治家になっている人達というのは、本当に選ばれた人達です。投票の票数によって当選するというのではなくて、ある程度、資質によって資格要件が絞れる、という理想的なものに近づけると思うのです。

今のように、高学歴社会においては、一定の教育を課するということも無理ではないと思うし、例えば、生活に対して不安があるんであれば、その政治家養成の学校に入るには、入学試験さえ通れば、費用は全て国持ちでいいと思います。給料を支給していいと思うのです。

今の、たとえば司法試験というのがありますが、それを合格して判事、検事になる人、あるいは弁護士になるために「司法研修所」というところへ入れ、給料を払って研修を受けさせるようになっていますね。で、司法の方は研修所があって、なんで政治の方にはないのですか、おかしいと思いませんか。

司法研修所があるならば、「政治家研修所」があっていいんです。そうですね。やはり専門ですから、そういったものを、今の優れた政治家から教わってもいいし各界の人に教わってもいいです。「政治家研修所」というものを設けなさい。

現在の、わが国の二院制については、はっきり言って、現在、参議院というのが、良識の府としての機能を殆ど果たしていないということです。これも問題です。参議院というのは良識の府ですから、これはおかしいですね。今のままでは、衆議院では解散が多くて収入も不安定だ、というので参議院に居たり、参議院に居るのは、どうも、やはり知名度が高いだけのような人が多いように思います。

ですから、先程、私が言ったこと、あるいは、聖徳太子方が言われたことを組み合わせるならば、こういったものでもいいわけです。衆議院議員は当選するには、いわゆる「政治家研修所」の卒業生である必要がある。ところが、参議院議員に当選するには、いわゆる「賢人会議」で推薦受けた人でなければならない。こういったふうにするならば、違った質の人達が集まることになると思います。

これでもいいじゃないですか。例えば「賢人会議」なら賢人会議から推せんを受ける。例えば、科学者なら、優れた科学者が居るとする。あるいは、数学者でもいい、そういった人達は政治家になろうと思わないでしょう。世界的な数学者、居ますね「広中平祐」さんとか、こういった人居ますね、こういった人も政治家になろうとはしないはずです。けれども、賢人会議では、そういう人を推せんするわけです。

政治の中では、教育問題も大きいから、こういう人達にも入ってもらおうと、推せんするわけです。そして、例えば、一定数なら一定数とれたら参議院議員になれるようにしておけば、彼らは苦しい票集めのための運動なんかやりたくないですよ。そういったことはしなくとも済むようになりますよ。こういったことでいいと思います。それで、衆議院の府というのは民意を反映しなければいけませんから、やはり一定の資格を持った人達が選挙で競って投票される。こういったことでいいと思うんです。

私達のような(霊界の)時代離れした人間から意見を聴くと、また違った角度での考えが出来ますから、それは、今のあなた方にとっては、意外、予想外の考え方になるわけで、参考になることも多いと思うのです。

この明治以後の百年間は、どちらかといえば、西洋文明を輸入して、それを消化して発展させるということに、日本および日本国民は努力して来たと思うのです。ですから、外国の優れた文化人のことについては、日本人は非常によく知っています。ところが、日本の文化人に対しては、例えば、イギリスの人は、殆んど知らないというのが、まだまだ現状であろうと思います。

日本の経済が強いということは知りながら、日本に、どれだけ優れた人が居るかということは、世界の人々は、まだまだ分っていないと思います。ですから、今後、私が望むこととして、やはり、世界の指導者、世界を啓蒙できるような人、こういった人に、どんどん日本から出て来て欲しいと思うのです。

「精神修養の書」でもいいです。精神的指導者、日本の精神的指導者が、アメリカや、イギリスや、フランスや、ドイツにも影響を与えるような人であって欲しいと思います。また、そういった書物を、どんどん出して行って頂きたいと思います。

日本には、日本独自のものが少な過ぎたんです。まあ、かつてはあったにしても、伝統としてしか残っていないのです。日本で独自なものが出て来て、その醸し出された雰囲気の中から、また日本独自の、様々な思想家達が出ていくことを、私は望んでいます。

そういう意味で、あなた方が、いまやっておられる、このスピリチュアリズムというようなもの、これは一つの宗教ではないはずです。ご存知のように、宗教であるならば、私が出て来て語る必要などないわけです。私が出て来て教育問題や政治問題を語っているわけです。既に、あなた方が今やっていることは、宗教の枠はもう越えているんです。宗教の枠を越えて、新たな精神運動、精神波動、新世紀へ向けての精神文明建設へ向けての新たな動きだということです。

あなた方の仕事は具体論ではありません。「各論」ではありません。あなた方は、この日本という国を中心として『総論』を創らねばならないのです。

これから様々な人達が出て来ます。あなた方の教えの裾野からね、いろんな政治家達とか、教育家達とか、科学者とか、また宗教家も出て来るでしょう。いろんな人たち、経済界の人達も出て来るでしょう。あなた方の「総論」を基礎として「各論」は、これから、今後何十年にも渡って出て行くのです。今、その「総論創り」をしているのです。

私からもお願いですが、どうか、宗教というような、一宗一派を起こすような、そういった偏狭な考えではなくて、日本なり世界の精神を創り変えていく、塗り変えていくという大きな仕事、ということで、大きな「器(いれもの)」を造って下さい。それをお願いしたいと思います。

それに、また、この世の人達は、現状に立って物事を考えており、未来のことは分らないのです。あなた方は、私達、霊たちのいろんな話を知っております。私達は、ある意味において、未来の社会がどうなって来るかということを予見している。観ているわけです。それに基づいて、いろんなことを言っているわけですから、私達の言葉の端々から洩れてくるものを吸収して、まとめたならば、今後の社会が、どのようなものを要求しており、どのような精神的指導が必要なのか、ということが、そこはかとなく見えてくるわけです。

それでは、よろしければ、今日はこれで帰らせて頂きます。

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