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霊界通信3の12、今の世に思うこと、天照大御神のメッセージ

2021年02月16日 | 教育
前回の記事の中で、アマテラス様のメッセージについて、大上段的な立場のご意見という様な記述をしましたが、これは、大所高所的な、とでもいうべき表現にすべき所を、誤ったものでした。お詫びして訂正させて頂きます。大上段的というのは、高圧的、威圧的というような意味があるようです。それは違いますね。慣れない言葉を使うものではありません。大変、失礼致しました。
さて、去年は、コロナの関連で、各地では、お祭りや神事の類は、自粛された所が多かったのではないでしょうか。そして、コロナなどの怖い病気から、なぜ神々は自分達を守ってくれないんだろう、と、たとえ見当違いでも、どの位の方々が、神を思ったことでしょうか。そもそも、神とは、そして、お祭りや神事とは何なのか、そうした、一般的な知識だけでは答えが出ない疑問に対して、非常に、ズバズバ、小気味良く示唆して下さっているのが、このアマテラス様のメッセージです(ここで神として言及されているのは、霊界から地上を見守り指導されている神霊の方々)。

(ここから)

神が沈黙して語らないと思っている愚かな者達よ。神が、いつも、お前達の見るに堪えない行いを、放置していると思っている族(やから)達よ。神は黙ってはいない。神は見過ごしてはいない。神は沈黙してはいない。

神は、あなた方に常に語っている、という事を知りなさい。

神の不在の責任は、神そのものにあるのではなくて、その神を、どの様に感じ、どの様に、それから学び、どの様にそれを日々の生活に行じて行くか、という、あなた方一人ひとりに問題があるのだ、という事を知りなさい。神が不在なのではなく、神を信ずる人間が不在なのであり、神から学ぼうとする人間が不在なのである。

あなた方の神とは、一体何か。

正月の時に神社詣りをするだけの神であるのか。それとも、受験の時や結婚の時の、祈願をするだけの神であるのか。もちろん、神の中には、その様な祝い事を取り仕切っている者もいる。しかし、それは、飽くまでも信仰の本道ではない。信仰の本道にあるのは、この天地を治めている神の経綸(なの)です。この神の経綸の下に、人々は生きて行かねばならない事となっているのです。

さすれば、神の不在を嘆くよりも、神を信じない人間の数多きを嘆きなさい。神の心を心として生きて行かない人間の数多き事を嘆きなさい。それは、あなた方、人間の責任である、という事を知りなさい。

本当の幸福とは、根本的に、全てを知るという事。全てを知った中で、自らを最高度に発揮して行くという事、これが素晴らしい事なのです。これが本当の生き方なのです。

ここに人生の根本がある、という事を知りなさい。本当の世界を知らず、神の創られた世界を知らずして生きているという事の、恥ずかしさを知りなさい。そうした世界の中で、弱々しく生きている自分達の愚かさを知りなさい。

神は黙ってはいない。神は手をこまねいて見ているのではない。神は、常に熱い視線でもって、あなた方を見ている。あなた方を見守っている。私が、この様に送る神示も、また、神が黙っていない事の、神が、あなた方を放置していない事の証明に他ならないと思う。

私が、この様に語る、という事が、かつて、あったであろうか、という事を知って欲しい。その意味を知って欲しい。

あなた方は、今、自分達が、如何に怠惰な生活を送っているか、という事に、気が付かねばならない。怠惰の理由はどこにあるのか。怠惰の理由は、時代の持つ意味を知らないからではないのか。また、自分が立たされているこの立場の意味を、知らないからではないのか。

今、新たなる風が巻き起こっている。大いなる嵐が始まっている。これは日本を立て直すための嵐である。

神の不在を嘆くなかれ、神の不在を嘆いている自分の無力さを嘆け。今、こうした大いなる風が起きる時、大いなるつむじ風が起きる時、この時に、同時代に居合わせたあなた方よ、わが言葉を学べ。わが言葉を学んだならば、それを行じていけ。それを一人でも多くの人に広めてゆけ。そこに本当の生き方がある。人間としての原点がある。神の子としての原点があると思う。

まず、神というものを思い出せ。そうして自らもまた、その神から出ている人間であるということを知れ。

さすれば、「親に似ぬ子は鬼子」というではないか。親に似るように努力せよ。親の心は、明るく豊かであり希望に満ちているのだ。あなた方だけが、何ゆえに、それ程悲しい顔をするのか。辛そうな顔をするのか。不幸を背負っている様な顔をするのか。そうしたものを吹き払え。一陣の(風の前の)塵の如く吹き払ってしまえ。大いなる風でもって薙ぎ払ってしまえ。禊払(みそぎはら)ってしまえ。そこに、あなた方の真実の姿が現われてくるであろう。

人々よ、知りなさい。神の心に適(かな)っていない方向での努力は、決して実を結ぶことはないのです。神の心を邪魔立てする様な方向においては、決して、本当の意味での成功ということはないのです。

やはり、心において、方向において、思いにおいて、神と共に在(あ)る、ということが大事なのです。この、神と共に在る、という事が、より普遍的な形となり、より多くの人々に分かる様な形として存在するために、道徳というものがあるのです。道徳というのは、信ずるべき対象ではなくて、守るべき規則です。ルールです。人間として、生きていく上での知恵です。この知恵の固まりが、道徳というのです。

日本人よ。あなた方は、かつて自分達が築き上げて来た道徳というものを捨てました。家庭の道徳を捨てました。そうしたものを、封建的なるものとして捨ててしまいました。間違いを生むものとして捨てて来ました。

捨てたくば捨てるがよい。ただ、それに代わるものを見出しなさい。古き道徳を捨てたならば、新しき道徳を打ち立てなさい。その時に、初めて、捨てたという事に意味が出てくるのです。単に捨てただけでは何にもならぬ。

あなた方は、古き道徳を捨てて、一体、何を得たのですか。そこに得たものは、アメリカ的な愚民主義の民主政治ではないのですか。性の退廃ではないのか。家庭の崩壊ではないのですか。また、女性の心の荒廃ではないのですか。こうした事を、もっともっと深く考えてみなさい。

特に、日本女性よ。あなた方は、戦前の美徳を、どこに失ったか。権利のみを主張して、本当の意味で、信義に適っていない女性達の、如何に増えたことか。男性を複製したような女性が、如何に、この大和の国の地に溢れて来たことか。それは非常に溢れている。嘆かわしいことです。女性の、いちばん大切な優雅な心を捨て、女性のいちばん大切な、奥ゆかしさを捨て、女性のいちばん大切な、内助の功、献身の美徳を捨て、それらを一笑に付し、自由気ままに生きているあなた方よ。深く、自らを顧(かえり)みなさい。深く、自らを反省しなさい。

本当の女性の有り方というものは、美しき献身の美です。献身の美徳です。それが、本当の、女性の素晴らしさであり、美しさなのです。

現代日本の女性達よ。同じく日本の地に在る私が、女性の眼でもって、あなた方を見る時に、どうしても言っておかねばならぬこと、それが、この献身の美徳です。

あなた方は、他の人々に対して、一体、如何ほど尽くしたことがあったでしょうか。一体、どれほど尽くしたことがあったでしょうか。どの様に、多くの人々のために身を挺(てい)した事が、あったでしょうか。身を粉にした事があったでしょうか。

自らの成果を誇らず、飾らず、そして、密(ひそ)やかに、奥ゆかしく、多くの人々のために生きて行く。これが日本女性の美徳です。こうした美徳を捨てた時に、あなた方の堕落が始まって行ったのです。

どうか、そうした事に流されることなく、そうした、外面の美や上辺(うわべ)の心に騙(だま)されることなく、内心の美を輝かして生きて行きなさい。そこに、女性としての道徳の登場の場面が、また、あるはずでしょう。

日本を憂う際に、どうしても忘れてはならなぬ事が、もう一つあります。それは、「師の不在」ということです。即ち、人々を導く人の不在という事です。

この、師の不在という事は、現代において、大変、大きな問題となっているのではないでしょうか。師が不在であるという事、人々を導く人が居ない、という事、真の指導者が居ない、という事は、その時代にとっては大変嘆くべき事です。大変、残念な事です。

(今という、この)時代の中において、師を見出すという事は、非常に困難を極めております。けれども、いつの時代にも、いつの地域にも、必ず、師は居たのです。その師を発見出来なかったのは、やはり、その時代に生きていた人々の罪であったのです。間違いであったのです。私は、その様に思います。

人々よ、現代に、師が居ないという事を嘆くなかれ。現代は師が不在である、という事を嘆くなかれ。現代の中にも、必ず、師は居るのです。あなた方の師は、居るのです。自らの目に掛けた色眼鏡を取り去り、心にかかった靄(もや)を取り去った時に、現代にも、また、師が居るという事を、大師が居るという事を、神近き人が居るという事を、あなた方は知るに至るのです。

大師の存在は、やがて、地域を超え、日本という国の枠を超えて、世の人々の間に広がって行くでありましょう。

師の不在を、単に、嘆いてはならない。自らの心の内に求めて行きなさい。師を求めて行きなさい。自らの内面を掘り下げれば掘り下げる程、そこに、自らが、師に近付いている事を知るでしょう。

大師と合うためには、大師と出会うためには、そして、大師の導きを受けるためには、自らも、また、それだけの神性を具(そな)えて居らねばならぬ。自らも、それだけの心の輝きを持っていなければならぬ。

師は弟子を選ぶ、という事を知りなさい。本当の教えというものは、その中に、必ず厳しい面がある。弟子が師を選んでいるだけではない。師も、また、弟子を選ぶ、という事を知りなさい。弟子としての態度を知りなさい。弟子としての学びの姿勢を忘れるな。学ぶという気持ち、学ぶという姿勢を忘れ去った時に、師は、弟子の前から姿を消すであろう。その様な弟子を、教育はしないでしょう。

弟子たる者、深く帰依するという姿勢を忘れるな。弟子たる者、師から学ばんとしている姿勢を忘れるな。自分の心の中に、師への愛慕(あいぼ)、思慕(しぼ)を持っている、という姿勢を忘れるな。この姿勢を忘れ、師も、また、自分と対等であるかの如く思い、お互いに教わったり教えたりする仲だと錯覚する様になった時に、その弟子は、一つの間違いを犯したことになるのです。

師というものは、帰依という姿を通して、初めて、全てを明らかにするのです。一人の師から、どれだけのものを学びとるか、という事は、その者(師たる人)に対する信じ方、その者に対する心の姿勢に拠るのです。師の心の扉は、(師)自らの心の扉が開いただけ教えを放つのです。(弟子は)自らの心の窓を開け。心の窓を大きく開け。開いた分だけの教えの流れが、愛の流れが、あなた方の心に流れ込んで來るでしょう。

(今の世にも)師は不在ではない。師は必ず居る。必ず居るが、必ず教えるとは限らない、という事です。その人(師)の傍(そば)に、十年居ようと、二十年居ようと、心の扉が開かねば、本当の意味において心に懸った霧を晴らさないで見ていたならば、何ら、学ぶ事はないでしょう。それは、傍近くに存在した、というだけであって、その人の心にとって何らのプラスにもならなかった、ということです。

信仰というものは、全てを見出していく道である。全てを投げ出し、全てを見出して行く道である。

小さな小さな、自分の我を捨てよ。自我を捨てよ。計算心を捨てよ。計算心がある時に、師は、本当の意味での教えを説くことはない。汝らの心の中にある打算を捨てよ。

弟子の心の中に打算がある時、師は、全てを与えることはない。全てを教えることはない。そうした事となっているのです。弟子達が、捨てれば捨てた程、また、新たなものが与えられて行くのです。

師の不在を嘆く者よ、師の教えの不足を嘆く者よ、自らの立場を省(かえり)みなさい。汝らは捨てていないのではないのか。汝らは、何かの間違いを犯しているのではないのか。汝らは、師に対して、計算心で接しているのではないのか。師に対して、打算心で近付いているのではないのか。何らかの欲心がありて近付いているのではないのか。自らが、より良く扱われる、という事のみを求めて近付いているのではないのか。真実の教えの道というものは、そうしたものではない。本当に、全てを捨てて来なければ、真実の道は開かない、という事を知りなさい。それだけの厳しさがある、という事を知りなさい。

師が不在である、と言われる現今であるが、弟子も、また、不在であるという事を、私は嘆くものです。本当の意味での、真理を求め、信仰を求める弟子の不足よ。打算のみを求め、自らの利益のみを求めて生きて行く人の、数の多さよ。こうした人々が心を改めないでは、本当の意味での信仰というものを、打ち立てることは出来ない。私は、その様に思います。

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