生地ヴェネツィアをパノラマ風に描き、光や大気の効果を巧みに表現した。カナレットは写真のような絵を数多く残したが、殆どの絵にカメラ・オスクーラを使って下書きをしていた。 フェルメールもカメラ・オスクーラを使っていたのではないかという説もある。 カナレット 1697年10月7日 - 1768年4月19日、ヴェネツィア共和国の景観画家 フェルメール 1632年10月31日? - 1675年12月15日、17世紀にオランダで活躍した画家 フェルメールの方が先に生まれている。
カメラ・オブスクラの原理は、ちょうどピンホールカメラと同じようなものである。原始的なタイプのカメラ・オブスクラは、部屋と同じくらいのサイズの大きな箱を用意し、片方に小さな針穴(ピンホール)を開けると外の光景の一部分からの光が穴を通り、穴と反対側の黒い内壁に像を結ぶというものであった。画家がこの箱の中に入り、壁に映った像を紙の上に描き移すことで、実際の光景とそっくりの下絵をつくるという使い方がされた。

この装置を使うことの利点は、結ばれた像の遠近感(パースペクティブ)が正しいため、リアリズムに富んだ絵が描けることにあった。遠近の正しい透視画を描くには、ほかにも糸を格子状に編んだ網を通して風景を見て、格子を書いた紙の上に各格子の中の光景を転写するという方法もあった。
カメラ・オブスクラが絵を描くための装置として芸術家の間で活用されるようになったのは15世紀頃である。レオナルド・ダ・ヴィンチは科学研究などを書き残したアトランティコ手稿(Codex Atlanticus )の中でカメラ・オブスクラを描いている。16世紀には鏡やレンズがカメラ・オブスクラに使用されるようになり、携帯型カメラボックスの開発も始まった。ドイツ・ヴュルツブルクのイエズス会士ヨハン・ツァーン(Johann Zahn )は1685年に著書『Oculus Artificialis Teledioptricus Sive Telescopium』を出版し、カメラ・オブスクラとマジック・ランタン(幻灯機)の記述や図解やスケッチを残した。
17世紀オランダの巨匠たち(ヨハネス・フェルメールら)は、細部への優れた観察力で知られている。彼らはこうしたカメラを使用したと推測されているが、この時期の画家たちがどの程度カメラを利用したかについてはさまざまな議論がある(カメラの使用に否定的な意見もある)。