パースペクティブフレーム:遠近法の作品を描くためにゴッホが使った補助枠。枠の中に放射状に糸を張っている。CGソフトではパース定規など同等の補助機能があるも のがある。
【遠近法を実践する道具「パースペクティヴフレーム」のレプリカと収集した研究書】
よく言われる遠近法ですが、どうやって精緻な構図を描くのかを初めて見ました。遠近法を実践する道具「パースペクティヴフレーム」のレプリカが展示されています。ゴッホは、1882年ハーグ近郊で「パースペクティヴフレーム」を使って風景画を制作したことを手紙に書いています。
一点透視図法の消失点は、中央にいるキリストの向かって左のこめかみの位置にあり、洗浄作業によってこの位置に釘を打った跡が見つかった。こめかみの位置に釘を打ち、そこから糸を張ってテーブル、天井、床などの直線を描いたと考えられている。12人の弟子はキリストを中心に 3人一組で描かれており、4つのグループがほぼ等しい幅を持つよう左右に等しく配置されている。これらの配置はまた、背景の分割によってより明確になるよう描かれている。キリストの顔や手などには未完成と思われる部分もある。弟子たちは顔よりも手の形によって表情が表現されており、様々な手の表現がこの絵画の大きな特徴の一つである。
糸張り画枠
キャンバスはくぎによって枠の上に固定されるのではなく、糸を用いて張られる. その他に2つの方法を組み合わせた張り方もある. 例えば隣接する2つの側を釘づけし、残る2つの側は糸で固定する. この方法には寸法に合わせて画枠を新調しなくとも小さいキャンヴァスの端切れを経済的に利用できるというメリットがあった. 糸張り画枠の伝統はオランダの画家のアトリエの作品に伝えられた.
糸張り画枠は17世紀オランダ絵画にみられる特殊な現象だったようである. ある絵画が糸張り画枠に張られて描かれたかどうかは折り込みが全くないか、あるとしてもごく僅かで枠の裏側にまつりつけられるか、縫い糸を通して引張るかしていることから判断できる.
手紙 | ||||
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形の正確さに加え、明暗の調子によって量感を再現すること。私は遅まきながら多くの受験生と同じように石膏デッサンの訓練に明け暮れるようになった。それまで愛好していたチャンバラ画や漫画、挿絵の世界は、ちょうど江戸の浮世絵などの文化のように、うち捨てられかえりみられることはなかった...。西洋絵画は確かに素晴らしい。あの重厚で圧倒的なリアリズム。しかし、どこかよそ行きで、そぐわない感じがつきまとう....。特に受験のために私たちがいっせいに追究した、あるいはさせられた?古典的な石膏デッサン。あの古典芸術の表現構造とはいったい何だったのだろうか?ここでもう一度整理してみたい。
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デューラーの木版画「測定教義」1527頃は遠近法によって対象の形を正確に描く方法を示している。画家は視点を固定し、対象をグリッドを通して見る。画家の手元に同じグリッドを引いた画面を置き、グリッドにそって対象の形を写してゆく。 |
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上の遠近法で使われるグリッドになぞらえて、古典絵画の写実の方法をイメージしたのが左の図である。 |
グリッドをはさんで画家の世界観と現実の世界はぴったりと重ねあわされる。西洋古典絵画のあのリアリズム、ダ・ビンチやデューラーの精緻なデッサン力はキリスト教の神学的世界観を目に見えるかたちに具現化するため是非とも必要な技術としてあったといえるだろう。古典絵画の表現世界を成立させるには、いわば「神業」としての描写力が不可欠な要素であったのだ。現代の私たちに敷衍していえば、グリッドの向こう側にあるのは、個々の理想の世界や願望の世界ということになるだろう。 |
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ちなみに、デューラーの木版にみられるグリッドは今でも簡便な用具が市販されていて、勉強をはじめたばかりの画学生たちが構図を取る時などにお世話になっていますね。
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セザンヌは、画家は、取り上げたテーマによって評価されるべきではなく、自己の世界認識をいかに表現したかということで評価されるべきだと考えていたらしい。
画家にとって光は存在しない
「画家にとって光は存在しない。何故なら、光を生み出す訳にはいかないのだから、他のものを借りて、これを現さなければならない。この他のものとは即ち色だ。そうはっきり悟った時、私はやっと安心した。」
いささか強引なこの言葉によってセザンヌは印象派から決別する。
やはり、セザンヌの表現の原点は田舎の自然にあった。1872年には、彼は手堅い画風で知られる印象派の先輩ピサロととともにオーヴェールで風景の制作に励み次第に独自の境地を拓いてゆく。
セザンヌがこうして逡巡しながらも、時期こそ違え同じ南仏を拠点としたゴッホのような破綻に陥らずに絵画の追究を続けられたのは、一代で銀行家にのしあがった父の資産と、思う人との結婚を阻まれ独身を通す妹マリーの財政管理能力によるところが大きかった。だが、同時に、独自の表現を求めずにはおれない画家の道を進むがゆえにつきまとう社会的孤立、孤独、不幸においては、両者の間にさしたる違いはなかったともいえるだろう。
セザンヌの作品では、複数の異なった視点から眺められたモチーフが同一画面に描き込まれ、モチーフの形態は単純化あるいはデフォルメされている。右図の作品『台所のテーブル』を見ると、果物籠の上部の果物は斜め上から見下ろしているが、籠の側面は真横から描かれている。テーブル上のショウガ壺と砂糖壺・水指しは異なった視点から描かれている。テーブル面の角度やテーブルの手前の縁が描く線はテーブルクロスの右と左とでは異なっており、テーブル上、右端の梨は不釣合いに大きい[2]。こうした、西洋絵画の伝統的な約束事から離れた絵画理論は後の世代の画家たちに多大な影響を与えた。
デフォルメ(仏: déformer。動詞)、デフォルマシオン(仏: déformation。名詞)とは、絵画や彫刻などで、対象を変形して表現すること[1]。変形(する)[1]。歪曲(わいきょく)(する)[1]。
現代日本では、対象の特徴を誇張、強調して簡略化省略化した表現方法との意味で用いることもあるが、これは日本独特の用法であり、本来のフランス語には誇張や簡略化の意味合いはなく、力学、地質学、数学などにおける「変形(する)」という意味で使われている。
原始美術、近代美術、戯画、風刺画、イラストレーション、漫画、アニメと世界各地のあらゆる時代のさまざまな絵画表現に見られる表現手法である。ただし、表現造作技術が稚拙あるいは未発達であるがゆえにバランスが現実的ではなくなってしまったものなどは、デフォルメとはいわない。デフォルメとは、あくまで作り手の主観の反映として意図して変形させた造形表現である。よって、単に現実的ではない造形を指してデフォルメと呼ぶのは妥当ではない。
単一色ですることが多い。
とすれば芸術的な要素は特にないのではないだろうか?
間違っていれば、似顔絵などは似ないし、デフォルメがなければ、個性も何もないだろう。
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ジョゼフ・ニーダムによれば、2世紀の中国で既に幻灯機が文献に現れているとされている。西洋では、1671年、イエズス会のアタナシウス・キルヒャーが Ars Magna Lucis et Umbrae に記したのが最初であった。
これは、新たな発明の発表ではなく、既存の機器を描写したものかもしれない。ランプとレンズを使って、ガラスに描かれた画像を適当な幕に投影する。