アドラー心理学をじっくり読む 岸見一朗
アドラー心理学は、オーストリア・ウィーンの精神科医アルフレッド・アドラーによって提唱された心理学。
ジグムント・フロイト カール・ユングと並び「心理学の三大巨頭」と呼ばれている。
アドラーは自身の心理学を「個人心理学」と呼び、人間は「分割できない全体」と考え、人間の「精神と身体」「感情と理性」「意識と無意識」は一見、矛盾するように見えても「一つの同じ実体の相補的で協力的な部分」と考えた。
アドラーは他者を「敵」ではなく「仲間」である、とみなし「共同体感覚」という考え方を提唱した。
この「共同体感覚」とは「他者が自分に何をしてくれるか」ではなく、「自分が他者に対して何が出来るか」ということに関心を持てるか、ということ。
故に「アドラー心理学は、実践心理学である」と説いている。
アルフレッド・アドラーは、1870年ウィーン近郊のルドルスハイムで、ユダヤ人家庭の7人兄弟の第2子として生まれました。
幼い頃のアドラーは、父親との関係は良好だったものの、母親との関係はあまり良くなかったと言います。
母が自分より2歳年上の兄ジグモントの方を可愛がっていたことや、弟が生まれると、今度は弟の方に関心が向くようになったからです。
上と下に兄弟姉妹がいる中間子は生まれてすぐは親の注目を浴びて育ちますが、次の子が生まれると次の子に関心が移っていくので、第一子とは違って、親の関心や愛情を独占することが出来ません。
アドラーは陽気な性格で兄弟仲は良かったそうですが、兄のジグモントとは折り合いが良くなかったそうです。
ユダヤ人の伝統を重んじるアドラー家では、兄のジグモントは長男として優位な位置を占めていましたし、さらには、アドラーは幼少期から病弱だったため、健康で優秀な兄に強い嫉妬心を抱いていたとのこと。
母親を「冷淡な人」と評していたアドラーでしたが、後に「母親は自分を皆と同じように愛していた、ということが分かった」と、当時を振り返って述べています。
このような背景から、その後出会うことになる、フロイトが提唱する「エディプス・コンプレックス」を否定する根拠にもなったようです。
「男の子が父親を憎み、母親に惹かれる」ということは、自身の経験に照らしても決して普遍的なことではない、と考えたからです。
1895年に大学を卒業したアドラーは、最初は眼科医として働き、後に有名な遊園地への入り口であるプラーター地区で内科医として開業。
患者には、遊園地で並外れた体力と業で生計を立てていた人たちが多く、生まれついての虚弱に苦しみながら、のちに努力して、その弱さを克服したことを見ていました。
また、アドラーは自身が病弱だったこともあり、彼らの「器官劣等性」に関心を持つようになります。
「器官劣等性」とは、いわゆる生活に困難をもたらすような身体的なハンディキャップのこと。
何らかのハンディキャップを持つ人は、そこから生じるマイナスを何かで補償しようとします。
アドラーは、それが性格形成や行動に影響を与えている、と考えたのです。
そのことから、アドラーは「客観的な劣等感」から「主観的な劣等感」へと関心を移していきます。
「器官劣等性が、必ず劣等感を引き起こすわけではない」と自身の経験上で分かっていたからです。
アドラーは、1900年に出版されたフロイトの著書「夢判断」を読み、精神医学に興味を持ち始めます。
アドラーは当時、批判的な意見が多かったフロイトを擁護する投書を新聞社に送り、それを知ったフロイトが自身の主宰するセミナーに、アドラーを招いたのが出会いの始まりでした。
アドラーは、フロイトが主宰するセミナーに招かれて共同研究者となったが、学説上の対立からフロイトと決別。
その後、独自に「個人心理学会」を設立。
アドラーは、アカデミズムから離れて活動の基盤を普通の人々の集まりに置くことにした。
アドラーは講演や講義の後、質問に来る人々に囲まれることを好み、熱心な学生や友人たちと夜遅くまで議論を続けました。
1914年、第一次世界大戦が勃発し、当時44歳だったアドラーは徴兵は逃れたが、精神神経科医の軍医として参戦、戦争神経症を患って入院する兵士が退院後、再び兵役に付けるかどうかを判断しなければなりませんでした。
再び前線に戻った兵士を殺すことにもなりうる、この任務はアドラーにかなりの精神的負担を与え、眠れぬ夜を過ごした、と語っています。
この戦争での経験が「共同体感覚」という思想を生み出しました。
共同体感覚というのは、他者を「仲間」であるとみなす意識。
フロイトは戦争を経験する中で「人間には攻撃欲求がある」と結論付けましたが、アドラーは全く逆の思想に到達したのです。
終戦後、社会主義への関心が再燃したが、ロシア革命の現実を目の当たりにしてマルクス主義に失望、政治改革による人類の救済を断念し、個人の改革は育児と教育によってのみ可能、とアドラーは考えるようになりました。
そこから教育改革の一環として、多くの児童相談所を設立しました。
この児童相談所は「子供や親の治療の場」としてだけでなく、教師・カウンセラー・医師など専門職を訓練する場としても活用され、自らのカウンセリングを公開して見せるなどして「自分の治療法」を積極的に公開していきます。
こうした活動を続けるうちに、アドラーの心理学はオーストリアを超えて国際的に認められるようになり、ヨーロッパ諸国、アメリカでも講演や講義の依頼が来るようになりました。
ナチズムが台頭していくと共にユダヤ人に対する迫害を恐れたアドラーは、次第にアメリカに拠点を移していきました。
目次
まえがき ー 誤解だらけのアドラー心理学
序章 アドラーの人生と執筆活動
1章 アドラー心理学の独創性 『個人心理学講義 - 生きることの科学』
2章 大切なのは「これから」 『生きる意味を求めて』
3章 遺伝や環境のせいにするな 『人生の意味の心理学』
4章 汝自身を知れ 『人間知の心理学』
5章 タイプ分けにご用心 『性格の心理学』
6章 人生の課題から逃げる人たち 『人はなぜ神経症になるのか』
7章 子どものためにできること 『教育困難な子どもたち』
8章 罰でもなく、甘やかしでもなく 『子どもの教育』『子どものライフスタイル』
9章 自分自身を受け入れるには? 『個人心理学Ⅰ - 伝記からライフスタイルを読み解く』『個人心理学Ⅱ - 子どもたちの心理を読み解く』
10章 他人の評価は気にするな 『勇気はいかにして回復されるのか』
11章 それは「衝動」だけでなく・・・ 『恋愛はいかに成就されるのか』
アドラー心理学は、オーストリア・ウィーンの精神科医アルフレッド・アドラーによって提唱された心理学。
ジグムント・フロイト カール・ユングと並び「心理学の三大巨頭」と呼ばれている。
アドラーは自身の心理学を「個人心理学」と呼び、人間は「分割できない全体」と考え、人間の「精神と身体」「感情と理性」「意識と無意識」は一見、矛盾するように見えても「一つの同じ実体の相補的で協力的な部分」と考えた。
アドラーは他者を「敵」ではなく「仲間」である、とみなし「共同体感覚」という考え方を提唱した。
この「共同体感覚」とは「他者が自分に何をしてくれるか」ではなく、「自分が他者に対して何が出来るか」ということに関心を持てるか、ということ。
故に「アドラー心理学は、実践心理学である」と説いている。
アルフレッド・アドラーは、1870年ウィーン近郊のルドルスハイムで、ユダヤ人家庭の7人兄弟の第2子として生まれました。
幼い頃のアドラーは、父親との関係は良好だったものの、母親との関係はあまり良くなかったと言います。
母が自分より2歳年上の兄ジグモントの方を可愛がっていたことや、弟が生まれると、今度は弟の方に関心が向くようになったからです。
上と下に兄弟姉妹がいる中間子は生まれてすぐは親の注目を浴びて育ちますが、次の子が生まれると次の子に関心が移っていくので、第一子とは違って、親の関心や愛情を独占することが出来ません。
アドラーは陽気な性格で兄弟仲は良かったそうですが、兄のジグモントとは折り合いが良くなかったそうです。
ユダヤ人の伝統を重んじるアドラー家では、兄のジグモントは長男として優位な位置を占めていましたし、さらには、アドラーは幼少期から病弱だったため、健康で優秀な兄に強い嫉妬心を抱いていたとのこと。
母親を「冷淡な人」と評していたアドラーでしたが、後に「母親は自分を皆と同じように愛していた、ということが分かった」と、当時を振り返って述べています。
このような背景から、その後出会うことになる、フロイトが提唱する「エディプス・コンプレックス」を否定する根拠にもなったようです。
「男の子が父親を憎み、母親に惹かれる」ということは、自身の経験に照らしても決して普遍的なことではない、と考えたからです。
1895年に大学を卒業したアドラーは、最初は眼科医として働き、後に有名な遊園地への入り口であるプラーター地区で内科医として開業。
患者には、遊園地で並外れた体力と業で生計を立てていた人たちが多く、生まれついての虚弱に苦しみながら、のちに努力して、その弱さを克服したことを見ていました。
また、アドラーは自身が病弱だったこともあり、彼らの「器官劣等性」に関心を持つようになります。
「器官劣等性」とは、いわゆる生活に困難をもたらすような身体的なハンディキャップのこと。
何らかのハンディキャップを持つ人は、そこから生じるマイナスを何かで補償しようとします。
アドラーは、それが性格形成や行動に影響を与えている、と考えたのです。
そのことから、アドラーは「客観的な劣等感」から「主観的な劣等感」へと関心を移していきます。
「器官劣等性が、必ず劣等感を引き起こすわけではない」と自身の経験上で分かっていたからです。
アドラーは、1900年に出版されたフロイトの著書「夢判断」を読み、精神医学に興味を持ち始めます。
アドラーは当時、批判的な意見が多かったフロイトを擁護する投書を新聞社に送り、それを知ったフロイトが自身の主宰するセミナーに、アドラーを招いたのが出会いの始まりでした。
アドラーは、フロイトが主宰するセミナーに招かれて共同研究者となったが、学説上の対立からフロイトと決別。
その後、独自に「個人心理学会」を設立。
アドラーは、アカデミズムから離れて活動の基盤を普通の人々の集まりに置くことにした。
アドラーは講演や講義の後、質問に来る人々に囲まれることを好み、熱心な学生や友人たちと夜遅くまで議論を続けました。
1914年、第一次世界大戦が勃発し、当時44歳だったアドラーは徴兵は逃れたが、精神神経科医の軍医として参戦、戦争神経症を患って入院する兵士が退院後、再び兵役に付けるかどうかを判断しなければなりませんでした。
再び前線に戻った兵士を殺すことにもなりうる、この任務はアドラーにかなりの精神的負担を与え、眠れぬ夜を過ごした、と語っています。
この戦争での経験が「共同体感覚」という思想を生み出しました。
共同体感覚というのは、他者を「仲間」であるとみなす意識。
フロイトは戦争を経験する中で「人間には攻撃欲求がある」と結論付けましたが、アドラーは全く逆の思想に到達したのです。
終戦後、社会主義への関心が再燃したが、ロシア革命の現実を目の当たりにしてマルクス主義に失望、政治改革による人類の救済を断念し、個人の改革は育児と教育によってのみ可能、とアドラーは考えるようになりました。
そこから教育改革の一環として、多くの児童相談所を設立しました。
この児童相談所は「子供や親の治療の場」としてだけでなく、教師・カウンセラー・医師など専門職を訓練する場としても活用され、自らのカウンセリングを公開して見せるなどして「自分の治療法」を積極的に公開していきます。
こうした活動を続けるうちに、アドラーの心理学はオーストリアを超えて国際的に認められるようになり、ヨーロッパ諸国、アメリカでも講演や講義の依頼が来るようになりました。
ナチズムが台頭していくと共にユダヤ人に対する迫害を恐れたアドラーは、次第にアメリカに拠点を移していきました。
目次
まえがき ー 誤解だらけのアドラー心理学
序章 アドラーの人生と執筆活動
1章 アドラー心理学の独創性 『個人心理学講義 - 生きることの科学』
2章 大切なのは「これから」 『生きる意味を求めて』
3章 遺伝や環境のせいにするな 『人生の意味の心理学』
4章 汝自身を知れ 『人間知の心理学』
5章 タイプ分けにご用心 『性格の心理学』
6章 人生の課題から逃げる人たち 『人はなぜ神経症になるのか』
7章 子どものためにできること 『教育困難な子どもたち』
8章 罰でもなく、甘やかしでもなく 『子どもの教育』『子どものライフスタイル』
9章 自分自身を受け入れるには? 『個人心理学Ⅰ - 伝記からライフスタイルを読み解く』『個人心理学Ⅱ - 子どもたちの心理を読み解く』
10章 他人の評価は気にするな 『勇気はいかにして回復されるのか』
11章 それは「衝動」だけでなく・・・ 『恋愛はいかに成就されるのか』