要介護5からの復活・菰野町周辺の四季

事故で脊髄の3.4.5番損傷。寝たきり状態から歩けるまでに復活。趣味の写真もまた始められるようになりました。

付き添い

2020-02-13 16:39:44 | 日記


今どきの病院ですので一応は完全看護になってはいます。
とはいうものの洗濯物が出るので週に二度ほどは
カミさんがやってきます。
そのときに読みたい本なども頼みます。
医療センターでは食べ物の差し入れもOKだったのですが、
この病院では食べ物類の持ち込みは一切禁止。

私、これまでに何度か入院の経験はありますが
食べ物の差し入れNGは初めて。
医療センターや市立病院では
入院患者のための冷蔵庫がありました。
40年以上も前になりますが
某胃腸科病院に入院していたときはタバコはもちろん、
夜ごと酒盛りをする剛の者までいました。

閑話休題。

2011年の10月末に転院したのですが、
11月6日に初孫が誕生。
となるとカミさんはそちらへ行くことに。
洗濯物の世話は私の母親にバトンタッチ。
1928年生まれですので83歳。
この母、自分の母(私の祖母)が長い間寝た切りで介護。
自分の夫も晩年は胃癌、大腸癌、左足の壊疽で介護。
夫(私の父)も亡くなり、
ようやく自分の好きなことをやり始めたら
今度は息子(私)の世話をすることに。
冗談めかしてではありますが
「バアさんの後は旦那で次は息子まで。
私は介護をするために生まれてきたのかねぇ」。

カミさんも母もごくたまに来る娘も
洗濯の合間には腕や足をさすってくれました。
体は全く動かない頃でしたし、
触られていることさえほとんど分からなかったのですが
「動くなるようにな~れ」との思いで。

病院のスタッフの努力はもちろん、
家族の思いがやがて通じることになるのです。

尾籠な話ですが

2020-02-10 09:03:50 | 日記


「尾籠」などとタイトルを付けましたが、
決して下品でも下ネタでもありません。

体が不自由での入院では
必ずついて回ることです。

全介護での食事はナースステーションで
介護士さんがもしくは看護師さんに食べさせてもらいますが、
食べれば当然出るものがあります。

全介護の状態では自分ではどうすることもできません。
尿は尿道カテーテルを付けたままでしたが、
便は紙おむつを使用することになります。

私の場合ひどい便秘になってしまい
処方薬を服用してもまるで効果無し。
少し強烈な液体の便秘薬を使っても
出たり出なかったり。
結局最後の手段は座薬になりました。

5日から1週間溜めこんだ夥しい便が一度に出るのですから
紙おむつからはみ出ることはないものの
背中の方にまで回って大変な状態になります。

世話をするのは主に介護士さんですが、
看護師さんもときには療法士さんも。

患者にとってはしょうがないことなのでしょうが
ものすごく申し訳ない気持ちになったものです。

そんな中でとある介護士さんの言ったことが
とても印象に残っています。
よほど私が落ち込んだ顔をしていたみたいで、
「そんなに気にしなくていいよ。
私はウンコを替えるのは得意なんだから」と
明るく言って手際良く紙おむつを交換。

それが仕事と言ってしまえばそれまでですが、
明るい表情でにこやかに始末をしてくれて
「はい、一丁あがり!」。
いつも以上にさっぱりと良い気持になったものです。

まれにそうでない人もいましたが、
それはそれで仕方がないですね。

月に一度の面談、そして……。

2020-02-07 09:55:30 | 日記


毎月、担当の医師、看護師、療法士と
患者、患者の家族の面談があります。
これまでのリハビリの進み具合と
これからの目標の設定をするのですが、
もう一つ重要なことがあります。

面談の日の状態で退院すると
どうなるかの検証です。
日々のリハビリで体の状態は
改善されているという実感があるので
「なんで?」と思ったものですが、
これ以上良くなるという保証はありませんし、
もしかしたら悪くなる可能性も否定できません。

つまり、面談の日の体の状態が
今の偽らざる状態で
このまま退院して家に帰ったときに
どのような生活ができるのか、ということです。

「寝たきり」、「車椅子」、「歩行補助器」、「杖」と
その都度の状態で、
家の改造をどうすればいいのか、
といったことまで踏み込んで話し合うのです。
バリアフリー、手すりの設置、バス・トイレの改造、等など。

幸い、最後の面談のときには
自力歩行できるまでに回復していたので
家の改造は最小限で済みました。

玄関の靴脱ぎ場の手すりと介護ベッドなどはレンタル。
トイレはウオシュレットに、風呂には手すりと入浴用の椅子。
家の改造には補助金が出るのですが、
トイレのウオシュレット化は対象外。
退院したときの私は要介護3で、
腕や指は自由に動かせない状態でした。
トイレのウオシュレット化は必要不可欠なのですが、
補助金は認められませんでした。

介護ベッドのレンタル料は要介護3のときは自己負担1割。
ところが2年後の介護認定で要介護2になると自己負担9割!
要介護3と2にどんな違いがあるのか分かりませんが
これにはビックリ。
なんでこの間に自己負担2割とか3割が無くて
いきなり9割になるのか不思議でなりません。
レンタル料数百円がいきなり数千円。
即、返却しました。

もう一つ不思議なことが。
第1種1級障害者の認定を受けているのですが、
第1種の不思議なこと。
JRでの運賃の割引を受けられるのですが、
片道100㎞以上で急行を利用したときに適用。
特急の場合は適用外です。
いまどき、新幹線があるのに
在来線の急行を利用するなんて考えられません。
新幹線ができる前か、一般的になる前に作られた法律が
未だに見直されていないのでは、と疑ってしまいます。

他にも障害者になってみると、納得できないこと
理解できないことがいくつもありますが……。



理学療法

2020-02-06 10:58:50 | 日記


2012年2月。
PTさんにサポートしてもらって何とか自分の足で歩けるように。
歩幅は小さく、床の自分の足を置くところを見つめながらの歩行。
顔を上げて姿勢良く歩くなんてことはできません。

どこの筋肉を使って歩けばいいのかさえも分からないのですが、
床を見つめながら一歩また一歩と、とりあえず歩けるように。
リハビリ室の中を歩くのですが
ほんの15分ほど歩いただけで太ももの前の部分がパンパン。

歩くことに何の違和感も無い人(ほとんどの人ですね)には
そもそも歩くことに何の疑問も無いことでしょうが
私にとってはいちいち考えないと一歩が出ないのです。
考えただけでうまく歩けるはずもなく、
床の一点に足を運ぼうとしているだけ。

このときに使っていたのが
ほぼ大腿四頭筋だけだったようなのです。
後ろでサポートしているPTさんは足を一歩出す度に
お尻のえくぼの辺りを突っついて「もっとここを使って」。

正しい歩き方をするために、写真の右側の
体重の負荷を軽くする歩行練習器を使ってのリハビリも。

この器具は二度ほどでNG。
体を上から釣って歩くのですが、
釣られて立っているだけで物凄い違和感が。
全く一歩が踏み出せませんでした。

結局、今まで通りの歩き方をしながら
体幹を鍛える方向に。

入院していたのは5階です。
時間になると療法士さんがベッドまで迎えに。
普通は車椅子で1階のリハビリ室まで行くのですが、
ある日のPTさんが「歩いて行こうか」。
まぁそのときは何にも思わなかったのですが
実は違う意味があったのです。

エレベーターで1階に降り
いつも通りのリハビリを終えた後、
意図することが分かりました。

PTさんが、「階段を使おうか」。
かなりハードなリハビリの後、5階まで階段で上がるのです。
これは相当応えました。

暖房は効いているとはいえ2月。
リハビリが終わって階段を5階まで上がると
頭から湯気が出るほど。
トレーナーの上半身は絞れるほどの汗。
介護士さんがビックリして
体を拭き、着替えさせてくれたものです。

                      to be continued


理学療法

2020-02-03 09:44:04 | 日記


2011年10月26日に転院。
次の日から始まったリハビリ。
「このまま寝た切りの人生になるのだなぁ」
などと漠然と思っていました。
でもこの病院で出会ったスタッフが
とてもステキな人たちで、
何とか少しでも良くしようという熱意に溢れていたのです。
担当者4名はもちろん、介護士さんや担当以外の看護師さん
療法士さんにいたるまで。

特に担当のPT(理学療法士)さんにはとても良くしてもらいました。
手術した病院の医師が、家族と私の前で言ったのは
「生涯寝たきりは覚悟してください。
せめて、車椅子の生活になれるようにリハビリを頑張りましょうね」。

2012年、何とか立てるまでに回復。
ここから一歩のためのリハビリの日々。
神経が途切れて何の感覚もない足でいかに歩くのか?
とりあえず、歩くのに必要な筋力アップから始めました。
スクワット、サポートされての階段の昇り降り。
1時間のリハビリが終わるとトレーナーが汗でびしょ濡れ。

それでも空いた時間はストリングスエスカルゴで自主トレ。


そんな日々が続いて、
ようやく歩行練習器にたどり来ました。

ここからは自分の足で歩けるのに
それほど時間はかかりませんでした。
一歩が自分の足の大きさほど
つまり26㎝が精いっぱいで
それもサポート無しでは危なっかしい状態ではありましたが。
多分、2012年の2月頃のことだったと思います。

せっかくスマホを用意してもらっていたのに
この辺のところを日記風に残して置かなかったのが残念です。

少しだけ歩けるようになると
さらなる厳しい日々が。

                       to be continued