恐羅漢山はおとといからスノーボーダー7人が行方不明になった山として一躍有名になったスキー場ですが、実は今まで広島県にスキー場があるとは知りませんでしたし、中国地方には大山しかスキー場はないと思い込んでいましたので一層驚きましたが標高を考えれば納得が行きます。それよりもそのどこか恐ろしい名前に興味を持ちました。幸い行方不明になった7人全員は無事発見され良かったのですが、同地の山地図を見ると、すぐ近くに死人谷なる名前の沢もありなんとなく不気味な感じがしていました。
恐羅漢山はオソラカンザンと読みますが、中国山地の島根県境にある標高1346mの山です。羅漢とは修行増のことで、悟りにまだ達していない者のことですが、それを恐れる山ですので、荒々しい山を想像しますが、実際はなだらかな起伏をもった優しい山並みです。隣の旧羅漢山と二つの峰を持つ山のように見えますが、以前は旧羅漢山の方が高いとされていたそうです。雪山遭難といえば、急峻な山と谷を想像しがちですが、八甲田山遭難に見られるように、一見穏やかそうな山でも深い雪に閉ざされると視界が利かなくなり、また広大な山裾からは抜け出されなくなりますので、この中国山地の標高はないが、奥行きの深い森に入り込むと出てこれなくなることは十分考えられることです。本来の名前の由来は、アイヌ語のオエソロカン(三葉うつぎの山という意味)という言葉の当て字という説が一般的のようです。また恐羅漢山は古くはソカヒ山(かんなを作る山の意味)と呼ばれていましたので、恐羅漢というのは割と近年の当て字のようです。隣の旧羅漢山はカゥウシラカン(オソラカンザンの傍の意味)のようです。アイヌ語由来説の他にこの地方の伝説があり、怪力自慢の中国の羅漢がこの地にいた怪力夫婦に勝負を挑み、負けて山になったというものもあるそうです。山の名前はだれが付けたかのかは分かりませんが、アイヌ語に当てはめると説明の付くものもが多いことに驚かされます。これは日本の原住民であると言われるアイヌ人・琉球人などの縄文人が広く日本全土で生活していた証拠のひとつなのだと思います。今は南北両端に分かれていますが、もともとは同じ民族であったようです。さて、同じく今日の信濃毎日新聞(地方紙)の美術欄のコラムに連載中の記事(県立歴史館主査学芸員の滝沢先生)で、五世紀後半の古墳時代の遺跡で長野市近く須坂市から出土した装飾品についての説明がありました。写真は拡大してあり大きく見えますが、実物は2.8×3.2センチと小さい純銅製銀メッキの装飾品です。四角の銀メッキを施した中心には大きくライオンの顔が描かれています。説明によると銅の分析をしたところ、中国南部産のもので、似た金具が韓国でも見つかっており、出土した古墳自体も積石塚古墳という東北アジアで発生し、朝鮮半島を通じて伝わった様式だそうです。これらの状況を考慮すると、古墳時代において都から遠い信州北部にも渡来人がやってきて、この地を開発したことが想像できるという記述です。獅子(像)は、仏教伝来とともに入ってきたものですので、それまで日本人はライオンなど見たこともないはずですので、仏教伝来以前の当時の長野の人々がこの装飾品を見たときの感想を思い浮かべるものおもしろいことだと思います。描かれた(掘られた)それは凶暴な山猫の類にも見えるのですが、その恐ろしい顔つきから最先端の技術を持ち次々と日本に入り込んできた渡来人の悪魔的な一面と見ていたのかもしれません。いずれにせよこの古墳時代というのは、旧土たる縄文人が渡来系弥生人の勢力に押されていった時期であることが判る出土品ではないでしょうか。恐羅漢山という中国地方の山にいたアイヌ系縄文人も、この5世紀以降徐々に住みかを追われて行ったのかも知れません。
恐羅漢山はオソラカンザンと読みますが、中国山地の島根県境にある標高1346mの山です。羅漢とは修行増のことで、悟りにまだ達していない者のことですが、それを恐れる山ですので、荒々しい山を想像しますが、実際はなだらかな起伏をもった優しい山並みです。隣の旧羅漢山と二つの峰を持つ山のように見えますが、以前は旧羅漢山の方が高いとされていたそうです。雪山遭難といえば、急峻な山と谷を想像しがちですが、八甲田山遭難に見られるように、一見穏やかそうな山でも深い雪に閉ざされると視界が利かなくなり、また広大な山裾からは抜け出されなくなりますので、この中国山地の標高はないが、奥行きの深い森に入り込むと出てこれなくなることは十分考えられることです。本来の名前の由来は、アイヌ語のオエソロカン(三葉うつぎの山という意味)という言葉の当て字という説が一般的のようです。また恐羅漢山は古くはソカヒ山(かんなを作る山の意味)と呼ばれていましたので、恐羅漢というのは割と近年の当て字のようです。隣の旧羅漢山はカゥウシラカン(オソラカンザンの傍の意味)のようです。アイヌ語由来説の他にこの地方の伝説があり、怪力自慢の中国の羅漢がこの地にいた怪力夫婦に勝負を挑み、負けて山になったというものもあるそうです。山の名前はだれが付けたかのかは分かりませんが、アイヌ語に当てはめると説明の付くものもが多いことに驚かされます。これは日本の原住民であると言われるアイヌ人・琉球人などの縄文人が広く日本全土で生活していた証拠のひとつなのだと思います。今は南北両端に分かれていますが、もともとは同じ民族であったようです。さて、同じく今日の信濃毎日新聞(地方紙)の美術欄のコラムに連載中の記事(県立歴史館主査学芸員の滝沢先生)で、五世紀後半の古墳時代の遺跡で長野市近く須坂市から出土した装飾品についての説明がありました。写真は拡大してあり大きく見えますが、実物は2.8×3.2センチと小さい純銅製銀メッキの装飾品です。四角の銀メッキを施した中心には大きくライオンの顔が描かれています。説明によると銅の分析をしたところ、中国南部産のもので、似た金具が韓国でも見つかっており、出土した古墳自体も積石塚古墳という東北アジアで発生し、朝鮮半島を通じて伝わった様式だそうです。これらの状況を考慮すると、古墳時代において都から遠い信州北部にも渡来人がやってきて、この地を開発したことが想像できるという記述です。獅子(像)は、仏教伝来とともに入ってきたものですので、それまで日本人はライオンなど見たこともないはずですので、仏教伝来以前の当時の長野の人々がこの装飾品を見たときの感想を思い浮かべるものおもしろいことだと思います。描かれた(掘られた)それは凶暴な山猫の類にも見えるのですが、その恐ろしい顔つきから最先端の技術を持ち次々と日本に入り込んできた渡来人の悪魔的な一面と見ていたのかもしれません。いずれにせよこの古墳時代というのは、旧土たる縄文人が渡来系弥生人の勢力に押されていった時期であることが判る出土品ではないでしょうか。恐羅漢山という中国地方の山にいたアイヌ系縄文人も、この5世紀以降徐々に住みかを追われて行ったのかも知れません。