JR千葉駅 本千葉駅 君待橋の碑 ハーバーシティ蘇我
君待橋の碑
君待橋の標柱
昭和44年3月までは「新川」と呼ばれる小さな溝(旧河道)があって、そこに架けられた石橋を「君待橋」といったが、55年その跡地に「君待橋苑」が設けられ、その北方約200mの都川に新しい「君待橋」が造られた。昔の君待橋には下記の伝承がある。
①長徳元年(992)藤原実方が陸奥国へ下向の途中にここを通り、里人に橋の名を問うと、君待橋と答えたので実方は「寒川や袖師ヶ浦に立つ煙君を待つ橋身にぞ知らるる」と詠んだ。(『千葉実録』)
②治承4年(1180)千葉常胤一族が源頼朝をその橋のたもとに出迎えた時、頼朝がこの橋の名を尋ねると、六男東胤頼が「見えかくれ八重の潮路を待つ橋や渡りもあえず帰る舟人」と答えた。(『千葉実録』)
③昔橋の近くに美しい乙女がいて対岸の若者と恋を語りあっていた。ある日大雨で橋が流され、呆然として対岸を眺めていると、若者は濁流を泳いで渡ろうとしたが、力つきて水中に没した。これを見て乙女は悲しみのあまり激流に身を投げて若者の後を追った。このことがあってから里人は君待橋と呼ぶようになった。(『日本伝説叢書』)
(千葉市『千葉市の散歩道』より抜粋)
Tジョイ蘇我場所
周りは千葉港の一部
オオバン
T・ジョイ蘇我(外観)
T・ジョイ蘇我(内観)
シニア料金
久しぶりの西部劇
君待橋の碑
君待橋の標柱
昭和44年3月までは「新川」と呼ばれる小さな溝(旧河道)があって、そこに架けられた石橋を「君待橋」といったが、55年その跡地に「君待橋苑」が設けられ、その北方約200mの都川に新しい「君待橋」が造られた。昔の君待橋には下記の伝承がある。
①長徳元年(992)藤原実方が陸奥国へ下向の途中にここを通り、里人に橋の名を問うと、君待橋と答えたので実方は「寒川や袖師ヶ浦に立つ煙君を待つ橋身にぞ知らるる」と詠んだ。(『千葉実録』)
②治承4年(1180)千葉常胤一族が源頼朝をその橋のたもとに出迎えた時、頼朝がこの橋の名を尋ねると、六男東胤頼が「見えかくれ八重の潮路を待つ橋や渡りもあえず帰る舟人」と答えた。(『千葉実録』)
③昔橋の近くに美しい乙女がいて対岸の若者と恋を語りあっていた。ある日大雨で橋が流され、呆然として対岸を眺めていると、若者は濁流を泳いで渡ろうとしたが、力つきて水中に没した。これを見て乙女は悲しみのあまり激流に身を投げて若者の後を追った。このことがあってから里人は君待橋と呼ぶようになった。(『日本伝説叢書』)
(千葉市『千葉市の散歩道』より抜粋)
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周りは千葉港の一部
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