はーちゃんの気晴らし日記

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事故米からの回想

2008年09月20日 | 回顧録
何からそんな話になったのだろう。
会社の昼食時、子供の頃の話になりました。

そうそう・・・
事故米の話からでした。
ある人が、
「私の子供の頃は、農家に大きな冷蔵庫がなかったから、お米はたいていカビていたよ。お米がカビると、それを洗って干して、ドンに出して食べたの。」
という話を始めました。
ドンとは、『爆弾菓子』のことだそうです。
その人は福島県出身の人で、爆弾菓子を『ドン』と言ったとか。
高知県出身の人は『爆弾』と言ったと言っていました。
私が子供の頃は、リヤカーに鉄でできた筒状のものを積んだおじさんが来て、お米を持って行くと、パーンと爆弾のような大きな音を立ててお米が膨らみ、それがおやつになりました。
その爆弾菓子の話から、昔の遊びの話になりました。
めんこ、ビー玉、ベーゴマ、おはじき、お手玉、ゴムとび、石けり、缶けりなどなど。

そして、私は、子供の頃のことを思い出しました。

私の近所にはみっちゃんというガキ大将がいました。
私が小学校の2~3年生の頃、みっちゃんは、たぶん5~6年生だったと思います。
性格も強く、一番年上だったため、近所の子供たちをしきっていた感があります。
みっちゃんの下には、ともちゃんという中堅どころがいました。
ともちゃんは、みっちゃんよりは年下でしたが、私たちよりは年上だったので、やはりみんなから一目置かれていたような感じでした。
ともちゃんは、おとなしくて、あまり目立たない女の子でしたが、お姫様ごっこをする時は、いつもお姫様の役でした。
そして、一番下っ端に私とまさえちゃんとさなえちゃんがいました。
私たち3人は、同級生でした。
私たちの子供の頃は特に意識することもなく、自然とそんな上下関係があったように思います。
私の家だけがみんなとは少し離れたところにありましたが、他の子供たちの家はみんな近くにありました。
そして、家々を挟むように広場があり、私たちはそこに集まって遊びました。
家の路地を利用してかくれんぼをしたり、缶けりをしたりしました。
その広場には夕方になると紙芝居のおじさんが来ました。
私たちの遊びは、男子は男子、女子は女子で遊びの内容が違うため、あまり一緒に遊ぶことはありませんでしたが、紙芝居のおじさんが来ると、どこからともなくみんなが集まり、その時は男女揃って紙芝居を見たりしました。

中堅どころのともちゃんには、お兄さんと妹がいました。
その妹も一緒に遊んでいたはずなのですが、あまり印象がありません。
ともちゃんのお父さんは、『三河島事故』で亡くなりました。
三河島事故というのは、多数の死者が出た常磐線の脱線衝突事故です。
翌朝のニュースや両親の話から、大変なことが起きたのを知りましたが、まさかいつも一緒に遊んでいるともちゃんのお父さんがその事故に巻き込まれたとは思いませんでした。
その事故以来、ともちゃんは、みんなとあまり遊ばなくなり、ともちゃん一家は、いつの間にか引っ越してしまったようです。

同級生のまさえちゃんは、私にとって印象の深い人です。
まーちゃんは、大きな目のまつげの長い女の子でした。
小学校では、同じクラスになったことも何度かあります。
噂によると、まーちゃんのお父さんは、刑務所に入っているということでした。
まーちゃんには、二人のお兄さんと、妹、そして当時は赤ちゃんだった弟がいました。
まーちゃん一家は、掘っ立て小屋のような、木を組み合わせているだけのような、家とも言えないような所に住んでいました。
今から思ってもまーちゃんのお母さんはかなり年寄りに見えました。
白髪混じりの長い髪を一つに束ねて、お団子に結っていました。
顔には深く刻まれたしわがたくさんありました。
笑った口元からは、飛び出したり欠けたりした前歯が見えました。
まーちゃんのお母さんは、乳飲み子だった一番下の男の子を負ぶいながら、洗濯物を干したり、家の前に集まったガラクタの整理をしていたように記憶しています。
当時、廃品回収業のような仕事をしていたのかもしれません。
まーちゃんは、学校では、いつも子分のように私の後をついて歩いていました。
そんなまーちゃんを私は、特に友達という意識もなく、ただ自分の後を着いて来る子というくらいにしか思っていなかったように思います。
私の両親は、古くなって私が使わなくなったかばんなどをまーちゃんにあげたりしていました。
そんなものでも、まーちゃんは喜んで使っていました。
まーちゃんが小学校の高学年になる頃は、あまり私たちとは遊ばず、いつも一番下の弟の子守をしていたように思います。
勉強とはあまり縁のない子だったので、テストの点はいつも悪かったようです。
ある時、まーちゃんが私の後ろの席になったことがあります。
その時のテストの点が殊のほか良く、みんなから
「まーちゃんがあんな点が取れるはずはない。はーちゃんの答案を後ろから盗み見たんだ!」
と言われたことがあります。
真偽のほどはわかりませんが、そのときのまーちゃんは、みんなの輪から外れて、淋しそうに一人で机に座っていたように思います。
それなのに、私がそばを通ると、ニコニコしながら「はーちゃん!」と呼びかけて来ました。
それに対して私は、特に反応もせずにまーちゃんのそばをすーっと通り過ぎたように思います。
その時の私は、まーちゃんをかばうでもなく疑うでもなく、たいして関心も持たずに他の友達と遊ぶことに熱中していました。
今、思うと、そんなところに私のわがままで自己中心的な部分を感じます。

私は中学から地元の中学には行かなかったので、その頃で、近所の子供たちとの付き合いは終わりました。
その後、みっちゃんは、新宿にある大手百貨店に就職し、私の初めてのアルバイトもみっちゃんに世話してもらいました。
さっちゃんは、いつの間にか引越ししてしまっていました。
まーちゃんの二人のお兄さんは、やく○になってしまって、まーちゃんは苦労が絶えなかったようです。
私が結婚して、二人の子供に恵まれた頃、まーちゃんは独身のまま、兄弟の子供の面倒をみているという話を聞きました。

7年前、私の父が亡くなった時、式場で何十年かぶりにまーちゃんを見ました。
まーちゃんは、父の霊前にお焼香を済ませると、親族席に座っていた私に向かって声にはならない声で「はーちゃん」と言いました。
口の動きで私の名前を呼んでいるのがわかりました。
まーちゃんは、昔のままのまつげの長い大きな目でじっと私を見つめ、また声にならない声で「大丈夫?」と言ってくれました。
私は、あまりにも意外な出来事に呆然とするだけで、まーちゃんの問いかけにも答えることなくただボーっとしているだけだったように思います。
葬儀が終わった時には、まーちゃんの姿はなく、それっきりでした。

事故米から、こんなにも古い時代のことを思い出してしまいました。
今度実家へ行ったときには、まーちゃんの消息を尋ねてみようと思っています。





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