令和2年1月18日(土)
名古屋鉄道主催 2020年ウィンター 名鉄のハイキング
「❸学問の神様北野天神社と尾張江南の旨い地酒 勲碧酒造」の続きです。
若宮八幡社から、次の目的地へ進んでいます。
1.5キロの道のりです。
どこかのお店の前に咲いていたお花さん。
寒さでこの状態になっているのかしら?
寒くても頑張って咲いていますね。
コンビニを通過していきます。
水路が続く歩道。
しばらく道路の歩道を歩きました。
「堀尾跡公園」にやってきました。
丹羽郡大口町にある公園です。
公園の傍を五条川が流れます。
桜並木で有名な川です。
ステージのようなところ。
公園内にある桜には、お花がチラホラ咲いていました。
四季桜だと思います。
ツバキ。
姉妹都市、島根県松江市から寄贈されたツバキだそうです。
和風な感じの建物がありました。
この建物の先に、アーチ型の橋が見えています。
行ってみます。
裁断橋です。
この橋には、ある悲しいお話があります。
堀尾金助とその母のお話。
天正十八年(1590)、十八歳の金助が小田原の役に参戦する佐和山城主、堀尾吉晴の軍に合流しようと、
病床の父方泰に代わり、叔父の左衛門進に伴われて御供所から出陣した。
熱田の裁断橋まで送って来た母と別れて小田原へ向かい吉晴の軍に加わった。
山中城攻めに初陣を飾った。
勝利を得る前に陣中で没した。
金助の最後を見守った横井源助が帰国し、遺骨を母の手に渡して金助の最後の様子を語ったのである。
母は我が子の若武者姿を忘れることが出来ず悲しみ、
日夜念仏誦経をして冥福を祈るばかりであったが、
せめて金助のための念仏を通じて、世の人々の助けともなればというので、
金助を最後に見た裁断橋を架け替え、橋の擬宝珠に悲願を刻んだのである。
刻まれた銘文のうち、仮名書きの文は、日本女性の三大名文と言われている。
尾張名所図会に残されている、裁断橋。
実際の裁断橋は、熱田に残っています。
母の悲願が刻まれた擬宝珠は、名古屋市博物館に展示されています。
堀尾橋。
わが子の菩提を弔う母の情愛の一念で、熱田裁断橋がかけられてより、
三百五十年。
出生址の大口中央道改修に際し、のちの世に、その遺徳を伝えるために、
堀尾橋を新設し、社会の道しるべとしたい。
昭和四十七年十二月
堀尾史跡顕彰会。
母と息子の悲しいお話が残るこの地。
堀尾家の旧邸宅があった八剱社が近くにあります。
ここから100mほどのところにあるので、行ってみることにします。
長くなりますので、続きはまたにします。