ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

あなたの近くにもいる「トランプおやじ」

2020年11月08日 | 沈思黙考

いま、ドナルド・トランプ氏に日本人として投げかけたい言葉は「恥を知れ」ではないだろうか。しかしこういった「トランプおやじ」は日本のいたるところにも存在する。別の言い方をすれば、思い込みの激しい中高年である。もちろんその女性版もある。

物語を生きるサル

その昔「パンツをはいたサル」という著作があった。パンツは下着のパンツのことだが、我々の先祖は性器を覆って隠すようになり、時期を問わずに発情するようになっただけでなく、さまざまな「パンツ」をはくことになる。おカネという名のパンツ、法律という名のパンツ、道徳という名のパンツ、神経症という名のパンツ、パンツという名のパンツ…。
この著作は、多様な視点から人間とはいかなる生き物なのかを論じたものだったと記憶している。

筆者は、我々ホモ・サピエンスという生き物は、「物語を生きるサル」であると考えている。
動物はふつう、自分の目で見たり、耳で聞いたり、においを感じたり、手や皮膚、場合によってはひげや超音波を使ったりしながら、自分の外に存在するものを知覚する。それは美味なるものや魅力的なものであるかもしれないし、毒となるものや自分を食い殺してしまう存在かも知れない。
我々の先祖もきっと、はじめは自分の五感で感じ取ったものだけを信じて生きていたに違いない。そして五感を通して感じたものだけが真実であり「この世」であった。

しかし、やがて自分の五感で直接感じることが出来ない「物語」を信じて生きるようになる。我々の先祖はいつの頃からか、そうすることによってサル山のサルのような小集団での生活から、膨大な数の他人を含めた大集団(たとえば国家)での生活を可能としてきたのである。

いま、GoToトラベルで県外へ出かけても、その旅先で暮らす人々によって「よそ者だ!」といって殴り殺されたりしないし、毒を盛られることもない。プラスチックカードを機械にこすりつけたりスマホをかざしたりしてピッと鳴れば、見知らぬ他人であっても美味しい料理を出してくれたり、安全で快適なねぐらを提供してくれたりする。これらはみな現代日本社会という、同じ一つの物語を信じているからにほかならない。

「キャッシュレスなんてものは信じられない。あたしゃ現金しか信じない」と主張する人もいる。しかしその現金だって、いわば「日銀物語」「日本政府物語」を信じているわけであり、決して自分の五感でもって価値を認識しているわけではない(できるわけがない)。金持ちの中国人が自国内ではなく海外に資産を置いているのも、ある特定の物語を信じていないがゆえだ。

物語は人を勇気づけたり、怯えさせたりする強力なツールである。そして多くの人が同じ物語を信じることが出来れば、それなりの秩序を持った集団を形成できるようになる。ややネガティヴに「共同幻想」という言い方もできるかもしれない。

「脳内物語」に酔いしれて

さて、「思い込みの激しい人」というのは、厄介な存在である。
結果としてよい方向に向かう場合もあるけれど、そうでない場合は周辺を不幸にさせてしまう。そして、しばしば本人はそのことに気づいていない。
ドナルド・トランプ氏は、自分が信じる脳内物語こそが真実であり、正義であるという人物なのだろう。だからこそ正当な手続きの結果をウソだと主張する。自分が信じる物語と異なる筋書き(=現実・真実)は、どうあってもウソなのだ。それを認めることは、彼のアイデンティティの崩壊であり、自己存在否定となるからだ。だからこそ自分にとってのウソ(=真実)に対しては激しく徹底的に攻撃を加える。論理の矛盾や破綻などと言われてもいっさい関係ない。なぜなら自分を否定してくるすべてのものはウソだからだ。自分こそすべて。自分こそこの世の真実。これこそがドナルド・トランプというホモ・サピエンスが信ずる唯一の物語なのだろう。

ところで、こういった自分からの視点、感覚しか持ちあわせない人物は、じつは我々の社会でも、それほど少数ではないのではないかと感じている。
といっても幼少期から青年期にかけてよくある自己中心性のようなものは別だ。それは発達や成熟の過程として現れるものだからだ。それらはふつう、だんだんと社会性を身につけていくことによって、周囲との協調を成し遂げていく。
しかし、中高年と呼ばれるような年齢を過ぎても、一向にそうならない人物も存在する。それどころか年齢を経ることによって家庭や会社といった集団内で発言力や影響力を増すものだから、手を付けられない状態になりやすい。

もっとも厄介なのは、その集団を経済的な面で支配できる立場にある場合だ。結果として彼を支えるような役割をする人物が取り巻いてしまうため、加速度的に自信過剰となり、ますます「オレ様思考」に拍車がかかる。そうしてその集団は、彼の脳内物語のためにどうにもならない状況にハマってしまう。

サイコパスではなく「ソシオパス」

「ソシオパス」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「サイコパス」なら聞いたことがあるかもしれない。
単純に訳せばサイコパスは精神病質者であり、ソシオパスは社会病質者である。どちらも一般人向けの言葉のようで、医学的には両方を含めて「反社会性パーソナリティ障害(または「非社会性―」)」というものらしい。
ここで気づく人も多いかもしれない。あおり運転をするような人物は、しばしばこの反社会性パーソナリティ障害を指摘されている(参考:「あおり運転と『ケーキの切れない大人たち』」)。
また、いわゆる成功者にもこの傾向の人物が目立つ。自分の利益のためなら他人の気持ちや痛み、犠牲など関係ないという感覚を持っているからだ。いや、他人の気持ちを想像する能力が存在しないといったほうが正確かもしれない(参考:「そんな議員が選ばれ、生き延びてしまう理由」)。

筆者の個人的な経験になるが、ある中小企業のオーナー社長は、どう考えてもこの「反社会性パーソナリティ障害」だった。つまり典型的な「ソシオパス」である。
その場の状況に関わらず大声で部下を怒鳴りつける。自分がよいと信じている社内制度は、どんなに指摘を受けても改善しない(指摘をしても怒鳴りつけられ精神的に追い詰めてくる)。自分に感謝や賞賛が向いていると演出できるイベントはきちんと実行する(ように指示する)。社内に限らず社外組織に対しても同様の態度で接する(ように指示する)ため、取引先や行政機関からすらあきれられている。そうしてそんな彼に傅(かしづ)いてきた人物の複数が心を病み、おそらくそのことによって引き起こされたのであろう肉体的な病気によって40代で人生を終えている。もちろん本人は自分が追い込んだ結果などとはツユほども感じていない。
なんだかどこかの独裁国家のようだ。

こういった人物に率いられる人間集団は不幸だ。仮にこういった集団のメンバーがそこを逃げ出そうとしても、それが容易でないことをソシオパスの彼はもちろんよく知っている。
しかしこんな集団は、それが家庭であれ国家であれ、否定されるべきではないだろうか。不変の強権者が、恣意的高圧的な態度でその集団を率いているとすれば、その外側から救いの手が差し伸べられるべきではないだろうか。

人間集団である以上、内部で多少の摩擦が起きるのは自然なことである。しかしDV(Domestic Violence:家庭内暴力、に限らず組織内暴力等)だとか、個人の人格を否定するようなことが恒常的に行われているようであれば、深刻な問題である。
ソシオパス、反社会性パーソナリティ障害の人物に率いられる会社、家庭、集団は、「外からはわかりにくいこの世の地獄」といえば言い過ぎだろうか。

現代人はほとんどの場合、様々な集団に所属して暮らしている。あなたが所属している集団には、こういったソシオパス的な人物が君臨してはいないだろうか。あるいは、あなたがよく知る「あの人」は、そういった集団から逃れられず、密かに苦しんでいるのではないだろうか。筆者はそういった発想、視点が大切であるように思っている。
そして、そういった想像力を働かせられる人こそ、サルではなく他者理解ができる「人」というものではないのかと思うのである。さらにいえば、悲しい物語に勇気をもって終止符を打ち、新しい希望の物語を胸に、強く生きていくこともできるのが「人」であると思うのだ。

なお、賢明なる読者には蛇足となるが、こういった障害を持っていたり、その傾向があるからといって差別してよいということにはならない。

ソシオパスに関する参考リンク


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