これからの日本に20世紀型のリーダーは要らない。21世紀もその5分の1が過ぎ去ろうとしているのに、日本の政治・経済・法律などの分野におけるありさまは、20世紀型の思考や発想を引きずるリーダーたちによって、未来に期待など持てない閉塞感に満ちてしまっている。コロナ後の日本社会で活躍する若者や子どもたち、そして本気で次世代のことを考える年配者・高齢者は、(後述する危険な落とし穴にも気を付けつつ)新しい21世紀のリーダーを求めていかねばならない。
【筆者注】1月13日、主旨を替えない範囲で添削と文章構成の変更をしています。
戦争と復興の20世紀
政治・経済・法律の分野だけでも、黒または限りなく黒に近い灰色の出来事が繰り返し起きている日本。令和に入ってもその傾向はなんら変わっていない。そして今回の新型コロナウイルスに対する絶望的なリーダーシップの無さは、この国の有権者でもある大人として、若者や子どもたちに顔向けできないほどだ。
2021年1月、遅きに失した緊急事態宣言が1都3県を対象に発出された。効果を危ぶむ声もあるが、このまま放置するよりは意味はあるだろう。
今回のいわば第2次宣言期間、つまり人の動きを制限して感染拡大を抑制している間に、いったい何をどうするのかが注目される。検査体制を拡充するのか、医療体制を立て直すのか、生活困窮者を支える仕組みを整えるのか。
もしかしたら「やっている感」の下手な演出だけを見せられて、ほとんど何も変わらないのか…。
19世紀の終わり、日本は中国(当時の清)に対して戦争で勝利した。それまで千数百年にわたってさまざまな文化を吸収してきた窓口であり、ある意味師匠でもあった中国に勝利したことで、日本は一転してこの国を見下すようになった。
その後も20世紀に入ってすぐ、大国ロシアにも(ギリギリではあるが)勝利したことによって「やっぱオレたち日本人って、じつはスゲェんだぜ」と言わんばかりにのぼせ上った面がある。
そんな空気でスタートした日本の20世紀は、振り返ってみれば「戦争と戦後復興の世紀」であった。前半は資源や権益を得ようと侵略的領土拡大を目指したものの、指導者層の稚拙な戦略・戦術、そして思い込みの激しさによって、完膚なきまでに叩きのめされる。そして後半では一転、経済的繁栄こそ人生の幸福という考え方で国民を一方向に向けさせた。
千数百年間にわたって大陸から文化を吸収してきた日本は、20世紀にその視線を180度転換する。日本海側(大陸側)を「裏日本」と命名して、太平洋の彼方のアメリカだけを見つめながら、世界一の経済大国に座すところまで駆け上った。
20世紀型思考の晩鐘
20世紀の発想はある意味「健康で元気なフツーの男性」の理論であるともいえる。女性や少数者、弱者と呼ばれる人々は存在しない、もしくは「ついで」に存在しているといったような整理の仕方であり、考慮の外に置いて走ってきた世紀でもある。
そういった時代における「フツー」とは、組織や体制に対して従順で、周囲に合わせて立ち振る舞う、問題意識の低い生き方とも言い換えられる。
それゆえ本当は議論の仕方も知らないし、会議の進め方も知らない。それどころか議論や討論というものを人格のけなし合いと捉えてしまうような、悲しい脳のクセがついてしまっている。
ただこう言った思考は、大量生産時代の集団主義にはまことに具合のいい思考形態(というか思考の出来なさ)であったし、工業生産力に偏った経済力を重視する国では、統治者にとっても都合のいい社会のありようだった。
確かに、敗戦によって物質的にも精神的にも打ちのめされた国土と国民を奮い立たせ、全国津々浦々から飢えや絶対的貧困を取り除いて、一定レベル以上の生活を保障する国家として復興・発展してきた事実は重い。
しかし21世紀に入って、もうその5分の1が過ぎ去ろうとしている今日もなお、先進国を生きる国民としての幸福を実感できている人は少ないといえるのではないだろうか。
そのことは何よりもまず、令和のこの国で生きることに失望し、自ら命を絶つ人たちが一向に減っていないというところに如実に表れている。特に若い世代が占める割合については、決して目をそらしてはならない。また「女性活躍」と唱えながら、女性の自殺が多くなってきている点も見逃せない。
新世紀が始まったような感激や感慨がほとんど感じられない根本的な問題は、政・経・法の世界や主要な民間組織の多くが、未だに20世紀型思考のリーダーたちによってオペレーションされているということである。
では「20世紀型思考」とは何か。筆者はだいたい次のように考えている。
基本的に自分や自分たちの、影響力の最大化が人生の目的になっている。
ものごとの「正しさ」はいつでも固定的に存在していると考えており、「世の中こういうもの」と整理をつけたがる。そしてその固定化された正しさへ向かって直線的思考と単純な世界観で進もうとする。戦後処理型思考ともいえそうだ。
利益や権益を得たうえで社会の中で何を為すのかといった思想はほとんどなく、その拡大・蓄積自体が目的化している。
なにか問題が発生した時は、「まぁ、騒ぐな」と泰然自若として見せるのだけれども、じつは何をすればいいかわかっていない。根拠のない自信だけは持っているのである。そして問題点に対しては、そこにカネを注(そそ)ぎ込めば解決できると考える。
そんな発想パターン、精神性としている。
21世紀を始められない私たち
これからも前世紀の発想で生きていこうとする人物や人間集団に、次世代のリーダーを務めることは難しい。またそれを選び出す主権者、有権者の立場であっても同様である。
これからは新たな課題に向かって進むための、ものの見方や考え方がどうしても必要である。新たな課題とは、格差の問題であり社会の中におけるあらゆる意味での弱者への眼差しと救済である。
20世紀、民主主義や資本主義という考え方を外部から与えられて理解も浅かった国民は、「多数は正義」「金と蓄財は正義」「日本社会に議論は存在せず皆は仲良し」「それが民主主義であり資本主義である」と思い込み、犠牲になっている物事には目を向けないようにしながら、一気に経済大国へのし上がった。
もちろん経済発展を一概に非難する気などない。経済成長によって日本国民は、あらゆる面で幸福になってきたことは否定できない。けれども、いつまでもその考え方、行動様式、成功体験にとどまっていては21世紀を始められないと思うのである。
落とし穴に気をつけろ
ところで、いくら新しいタイプのリーダーを見つけ出そう、選びだそうとしても、そこに大きな落とし穴が潜んでいることを忘れてはならない。確かに、これまでとは異なる画期的な方法を掲げ、輝かしい未来を語る人に魅力を感じてしまうのは自然なことではある。
しかし、現状よりはいくらかマシだろうといった安易な考え方で、新しいリーダーに対する批判精神も持たず人々が沈黙してしまうならば、次にやってくるのは輝かしい未来ではなく暗黒社会である。そのことは歴史が証明している。
一部の人々が熱狂的に支持すると同時に、多くの人々がその違和感や批判を口にせず、とりあえず自分の生活が立ち行くならばと沈黙してしまった結果、民衆が選び出したリーダーはアドルフ・ヒトラーという人物であった。
ヒトラーといえば、「ユダヤ人を虐殺したとんでもない人物」といった程度の理解しかない日本人も多いが、より大切なことは、暗黒社会の到来を「民主主義下の」ドイツ国民が自ら選び取っているということである。別の言い方をすれば、社会に対する無関心によって国民自らが自由を放棄したということである。
ここで少し、その時代のその国の状況を知っておく必要がある。
当時のドイツは、第一次世界大戦の戦後処理(ベルサイユ講和条約)で1,320億マルク(約200兆円:国家予算の約20年分)もの賠償金の支払いを背負わされていた。250マルクだったパンの価格が、1年で3,990億マルク(約16億倍)にも達するハイパーインフレが発生し、低額紙幣の山を子どもたちが遊び道具に使うほど経済が混乱していた。
大量の失業者も発生し、庶民は家財を切売りして物々交換したり、配給の列に並んだりした。そこへ世界恐慌がふりかかる。
そういったドイツ社会の中で多くの政党が分裂・乱立し、議会は解散と選挙が繰り返され、政権が次々と変わり、国民には「なにも選ぶものがない」といた閉塞感が満ちていた。そこへ登場してきたのがヒトラーである。
つまりナチス、ヒトラーは暴力的な手段で権力を掌握したのではなく、間違いなく民主主義の中から生まれてきているのだ。彼は確かに(手段はさておいて)完全雇用を生み出し失業者を無くしたし、裕福ではない人々に旅行やレジャーのような楽しさを与えた。一面的、一時的ではあるが国民に満足感を与えているのだ。
しかし、ナチスやヒトラーが民主主義の中から生まれたとはいっても、実質はその思想や主張に人々が共感して、多くの人が積極的に支持したという構造ではなかった。
自分の生活に直接火の粉が降りかからなければ、奇妙な主張や矛盾したマニフェストであっても「まぁ、仕方がない」「いずれまた政権は替わるんでしょ」「なら、それでいいじゃないか」といった、社会・政治に対する人々の無関心があったのだ。
選挙の投票率が低下し、「選ぶものがない」と諦めムードになっているどこかの国と恐ろしく似通っている感じがしないだろうか。
ドラッカーはカネ儲けの神様じゃない
ところで、ピーター・F・ドラッカーといえば、ほとんどの人は「組織マネジメントの父」とか「経営学の神様」といった位置づけで理解していると思う。日本でも、ユニクロを立ち上げた柳井正氏をはじめ、ドラッカーに私淑(ししゅく)していると公言する組織経営者は多い。
しかしドラッカーは、組織マネジメントの父である前に、社会の自由や民主主義といったことに対する思想人であった。金儲けを煽るような本を世に出している人物では決してないのだ。
ドラッカーは1909年、ドイツの南隣に位置するオーストリアの、比較的裕福でインテリジェンスの高いユダヤ系家庭に生まれている。若い時期にドイツに移り21歳で、当時国内で最もリベラルであったフランクフルト大学の講師を務めるようになる。そしてほぼ同じタイミングでヒトラーが率いるナチスが政権を握っている。
ある日、大学にヒトラーが送り込んだナチスの党員がやってきて、全教員を集めた席で「明日からユダヤ人教員は出ていけ」という。
職員会議の席でそんなことを言われた講師たちは唖然としたり反発したりするはずだ。しかし、いつも高い問題意識を持ち積極的に意見を言うノーベル賞クラスの講師ですら黙り込んでしまったという。それどころかこの講師は「少なくとも私の研究費はもらえるんですよね?」としか言わなかった。この様子にドラッカーは激しい嫌悪感を抱いた。その後ドラッカーの親友たちはドラッカーを避けるようになり離れていったという。
またドラッカーは大学講師のほかに新聞編集の仕事もしていた。そしてその職を辞する決意を固めていたところに、ナチ党員の同僚が慰留にやってきて激しい口論となる。最も残虐なユダヤ人迫害を行ったヘンシュという人物である。彼は「自分は貧しい職人の家に生まれ、これといって能力もない人間だが、ナチに行けば金も権力も与えてくれるのだ」と言ってはばからなかったという。
ナチスの体制に嫌悪し、それに沈黙してしまう市民に失望していた若き日のドラッカーは、こうした出来事をきっかけにドイツを後にアメリカへ渡るのである。
日本の将来は良き市民社会でなければならない。「あいつはダメ、こいつもダメ」と不満や非難ばかりで思考も行動もしない国民には、21世紀はいつまでたってもやってこないだろう。
そして、自分の生活に大きな問題がなければ、社会のありようについて考えることなど無意味と考えて無関心でいるならば、いつでも暗黒社会が入り込んでくるだろう。
よい社会はどこかからやってくるものでもなければ、誰かがお膳立てしてくれるものではない。ドラッカーは自身が体験したナチス社会に関連して、自ら獲得した民主主義ではなく与えられた民主主義の社会では、容易にこういったことが起こりうる、と分析している。
東日本大震災のあと、「いまこそニッポンはひとつになろう!」といった空気が広まっていた。一致協力することは時には必要だが、自分の生活さえ守られるならと、社会に対する問題意識のかけらもなく無批判に生きていくならば、まさに「ボーッと生きている」あいだに、致命的な社会を招いてしまう。
20世紀型リーダーは要らない。
しかし、問題意識が低いままの国民に、耳障りのいいことを投げかけつつ、目先の要求を満足させてくれる勢力に疑問も持たず沈黙し、そのうちこの政権も消えていくだろうと無関心でいるならば、いつしかコントロールが効かない暴走が始まる。
繁栄を謳歌した国は、その後に享楽的になって滅亡するといわれるが、21世紀のいま、我々はその分岐点に立っているのではないだろうか。
おっしゃるとおり私の投稿は全体が長く、まどろっこしくてイケませんね。克服すべき今年の目標にします。
駄文を読んでいただいている方々に感謝申し上げます。
記事が長すぎて全てを読んだ訳でもないですが、全く賛成ですね。
時代はドンドン流れてるのに、リーダー像だけは西郷隆盛で止まったままですもんね(笑)。