ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

政府・行政でもなく、営利企業でもなく

2021年01月28日 | 沈思黙考

21世紀に入って約20年。この国の政府には期待も希望も持てず、未来が見えてこない。今後もだらだらと続くであろうコロナ禍は、もう既存の仕組みや考え方では乗り越えていけないのではないか。我々が少しでも前向きに生きていこうとするならば、行政以外の力とりわけNPOのような組織や、地域的共同体意識を持つ一般の人たちの力が、未来を切り開いていくカギとなるのではないだろうか。

「放置死・困窮死」「学業断念」を横目にする僕らのリーダーたち

新型コロナウイルスに感染しても入院できないまま、自宅療養・待機中に亡くなった人は、昨年12月以降だけで少なくとも21人はいるのだそうだ(2021年1月下旬)。入院待ちしていた人の容体が急変し救急車を呼んだものの、3時間も搬送先を探した後に死亡した人もいる。この新型コロナウイルス感染で亡くなった日本人はすでに5,000人を超えた。

そもそも新型コロナウイルス感染症は、感染症法に基づいて強制入院などの措置を取ることができる指定感染症(二類感染症相当)である。しかし現実には多くの感染者が病院に入れず、ホテルや自宅に留め置かれているのである。我々はこんな異常事態の中に昨年からおかれているということを、あらためて認識しておく必要がある。
そんな中、入院拒否には刑事罰まで科そうという閣議決定までされた(筆者注:その後1月28日、入院拒否に対する懲役・罰金等については削除し過料とすることで与野党が合意)。
さらに、我々の目の前には変異株という「新たな大波」も迫ってきている。

そして不気味なことに、医療機関以外で死亡し警察が取り扱った変死を含む死者のうち、コロナ感染者は今年に入って20日間で75人を数えるという。2020年12月は56人、同年3月以降の合計で197人というから、「コロナ変死」は急速に増えてきているといえる。

これらの諸状況を前にすれば、いますべての日本人に「放置死」という言葉が重くのしかかってきているといっても過言ではないだろう。コロナ感染者はもちろん、その他一般の治療・療養生活者、事故や急病がありえる一般市民にとって「ひっ迫」などではなく、明白な「医療崩壊」である。

その一方、生活の困窮やそのことによる学業上の悩みで、この時代のこの国で生きることをあきらめる人々が増えている。なかでも注目すべきは若者と女性である。
企業内部の女性管理職を増やすことなど後回しでいい。そんなことよりも今後数年は「パート・アルバイト従業員の女性が輝ける社会」と具体的に絞り込んで、まずは応急施策を実行すべきではないだろうか。
そもそも日本の女性の自殺率は、世界的に見ても高いのだということを知っておかねばならないし、日本人男性はこれを「恥」と感じて然るべきである。

また若者や子どもは(甘やかすのではなく本当の意味で)大切に守り育てていかねばならない宝であるのに、この国はどうかしている。15~34歳の死亡原因の第1位が自殺であるというのは、主要7か国(G7)中で日本だけだという。
これについては特に団塊世代を中心とした有権者も、恥じ入る気持ちすら持ってその問題意識を組みなおしてほしい。

共助は近所

ところで「自助・共助・公助」で難局を乗り切っていこうというようなフレーズを時おり耳にする。
自助は「自分のことは自分で」と言い換えられるだろうし、公助は「政府や自治体など行政の仕組みで」と言えばイメージしやすい。しかし「共助」を自分の日常生活の中で具体的にイメージできるだろうか。
「共助」とは地域コミュニティでの助け合いということになるようである。要は「割と近くで暮らしている人たち」であり、具体的には町内会や学区といった程度の地理的範囲を指すことになる。

しかし現代の日本社会ではこの共助が劣化してきており、そのことによって自助と公助にしわ寄せが及んでいると言われる。
「んな、いちいち他人のことなんか気にして生きちゃいないぜ」という人も少なくないはずだ。マンションやアパートなどの共同住宅に住んでいて(ある意味「同じ屋根の下」だ)、ろくに挨拶も交わさない、交わせない人はめずらしくない。

昭和の終わりころから「プライバシー」という言葉が日本で一般化するにつれて、近所付き合いの煩わしさなどが語られはじめた。地域と関わらずに生きること方が、あたかも先進的な暮らし方であるかのような空気が作られてきた。加えて社会のしくみが変化したり物質的な充実もあったりして、共助の土台となる「生活の場における地域的人間関係」が急速にしぼんでいった。

そうして平成に入ると、今度は「自己責任」という言葉が、これまた社会の中で正義の思考パターンであるかのように使われ始める。
こうした流れの結果、行政(や勤務先)に対して文句を言い続けるか、もしくは自己責任という名のタコツボの中で悩み苦しむかの二者択一社会になってしまった。

ここはやはり、数十年の間にしぼんでしまった地域的人間関係を取り戻す必要があると思う。ではこんな二者択一状況の現代社会で、地域の人どうしが助け合いをすることなんて出来るのであろうか。
筆者は出来ると考えている。ただし現代における共助は、意識的に工夫された仕組みがなければ現実的な力とはなりえないだろうとも考えている。

さらに存在意義を深める中間団体

我々が生きている世界・社会が、行政と、そしてバラバラに孤立した個人(世帯)だけで出来上がっているとしたら、なんとも息苦しく希望の持てない社会である。我々が人間らしく生きるためには、やはり中間的なコミュニティの充実が必要である。
その中間的な組織には、行政のような強制力や威圧感、仕組みのわかりにくさや手続きの困難さ、対応の鈍重さ、個別事情に対応できない硬直性などはない。
かといって自己責任主義のように、あらゆる生活面で追放状態に置かれるような孤独に苦しむこともない。

「顔が見え体温が感じられるSNS」といえば言葉として矛盾するかもしれないが、本来自然発生的にあるはずの「地域ソーシャル・ネットワーク」を実のあるものにするためには、やはりある種の団体が必要だろう。
筆者は、それはNPOや、(排他的ではなく社会の中で正常に機能している)思想・宗教的な共感のもとに集った地域集団なのではないかと考えている。

コロナ禍における報道などで、NPO法人の支援活動が数多く知られるようになってきた。ホームレス支援、女性支援、その他あらゆる面での生活困窮者支援は行政だけでは実行不可能だし、もちろんその個人・世帯(自助)だけでは無理である。
またマスメディアなどには乗りにくいが、多くの宗教組織も実際に行動を起こしている。彼らはその宗教的・哲学的信条を基盤にして、チームワークで地域に生きる人々を支え、またそのことによって自分も支えられていると実感している。人間というものを深く探求しつづけており、社会から取り残されそうになっている人たちにとっても大きな精神的支えとなっている。

もしもこういった活動をする集団が存在していなければ、脅しでも誇張でもなく、日本の各地に「野たれ死に」や「自殺」が現状よりもっと悲惨な形で増えていたはずである(すでにそういった状況が始まっていることに我々は正常な危機感を持たなくてはならない)。

いま自分が、生身(なまみ)の人間として生活している場所の周辺に、行政の仕組みでもない、家族や親族のような身内でもない、地域を支える人たちがいるはずだ。
「ボランティア」という言葉が重たければ、ちょっとした自主清掃活動の手伝いなどを「ちょろっと」やってみるのもいい。犬を連れた人、赤ちゃんや小さな子どもを連れた人とは、その「かわいい存在」を介してなんでもない会話をしたり、ちょっとした手助けをしたりすることもできる(犬と乳幼児を同列におくわけではないけれど)。
大切なのは、近くの他人と言葉を交わすこと、笑顔を交わすこと、気持ちのキャッチボールをすることではないだろうか。まことに小さな行動だけれども、その積み重ねと広がりこそが共助の土台となり、私たちの未来にとって大きな支えになっていくと思うのだ。
そしてこれを社会の中で継続的・安定的なものとするために、NPOや地域的な宗教組織が大きく貢献できると思うのである。

【附録】NPOと宗教組織

ここで付録として、NPOと宗教組織について整理しておきたい。

NPOという語そのものは非営利組織ということだが、本稿では特に厳密な定義を意識していない。強いて言うなら「株式会社のような金儲けが目的の集団ではなく、自助と公助の谷間で孤立しがちな現代社会において、悩み苦しむ人々に対して手を差し伸べる活動をする集団」といった想定である。
ただし日本で「NPO法人」といった場合は、一定の法的要件を満たした特定非営利活動法人ということになる。

NPO法人(特定非営利活動法人)の職員・従業員たちは、なにも毎日「タダ働き」をやっているわけではない(NPO法人が募ったボランティアたちが活動することはある。なおボランティアと奉仕活動は厳密には異なる)。
「NPOに就職する」という息子・娘に対して「なんであなたが『給料ももらえない』ボランティアなんかするの」と言った親がいるとか。この親は決定的な勘違いをしている。NPO法人は、雇用される立場にとってはふつうの会社とほぼ変わらない(それは優良企業もあればブラック企業も存在するという意味でも同じことである)。

一般の株式会社は従業員に給料やボーナスを払い、法人税や事業税を払い、残った儲けはその会社の役員や出資者(株主・投資家)たちで分配する。つまり給料を支払った後にも(ゴッソリ?)金が残っているわけであり、これをある一部の人たちが取っていくという仕組みなのである。
また「内部留保」といって、従業員にも払わず株主たちにも分配せず、将来に備えて会社内部にひたすら溜め込んでいるお金もある。必要なことではあるが、これがあまりに多すぎると「世のため人のためになっていない!ちったぁ給料にまわせ!税率を上げて公共のために使え!」などと問題になることも多い。

しかしNPO法人ではこんなことはない。もしお金が残ったら本来の事業目的(シングルマザー支援など)のために使うなどしなければならない。それこそが、カネもうけが目的の株式会社などとは異なるNPO法人の存在意義だからだ。
どこかに金をためこんだり(内部留保)一部の人間たちで分配したりしていたら、設立の趣旨に虚偽があったことになり法律違反である。
なお現実には、誰かの金もうけのためのNPOとか、別の悪事を覆い隠すために設立される「隠れ蓑」としてのNPOも存在するようである。コロナ禍に乗じて今後、NPOを名乗って寄付を強要してきたり詐欺を働いたりする事例も出てくるかもしれない(もちろん寄付に支えられている真面目なNPOがたくさんあり社会に貢献していることは言うまでもない)。

それから宗教組織だが、「宗教」と聞いただけで脊椎反射のように嫌悪感を示したり距離をとっておこうとする人がいるが、それはあまりにも宗教リテラシーが無さすぎるダメ系日本人の典型である。
歴史的に無理もない面もあるけれど、奇妙なうわさや悪意をもとにした情報などに惑わされず、彼らの活動実態を冷静にとらえる感覚を養わねばならない。

いまから25~30年ほど前、この日本で数々の殺人事件を引き起こして大きな社会問題となった、一連の「オウム真理教事件」というものがあった(若い世代は是非ググっていただきたい)。
このとき日本国内では、社会の中で正常に機能している宗教と、宗教に名を借りた単なる殺人集団との違いについて、きちんと説明されることがなかった。当時のマスメディアもこういったことを説明する力を持ちあわせず、事件をセンセーショナルに伝えるばかりで「宗教は危険である」といった誤ったイメージを拡散させてしまった。
日本人が、世界から「哲学なき極東の島の人々」と思われ、腹の底では見下されているというのも、あながち間違いではないだろう。与えられた情報やイメージを鵜呑みにするだけでなく、冷静客観的なものの見方が出来るよう自分を磨くことも大切だ。


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