テレワークや在宅ワークという言葉をよく聞くが、いったいこの日本社会で、どれだけの仕事が遠隔でできるだろうか。
緊急事態が宣言されたいまも、現場で汗を流し、「いつもの社会」と同じように「緊急事態の社会」を支えつづけてくれている人たちは、じつは、ふだん我々がほとんど気にもかけていない、もしかしたら見下しているかもしれない人々である。
いまそういった人たちにあらためて感謝したい。
ざっと、緊急事態の社会を支えている人を思い出してみる。
医療・福祉関係
まず当然ながら医療関係者である。
医師や看護師をはじめ、感染者や重症者が集まってくる場所に居続けなければならない仕事に従事している人々すべてである。
また、外出の自粛によって運動不足、栄養不足になった多くの高齢者を支える高齢者福祉の現場を支える人々がいる。施設で働く人々、各家庭や施設を走り回るケアマネージャーやヘルパー、地域の人々がいる(自治体によりケアマネの戸別訪問は自粛されている)。
障害者のために働く人がいる。普段の生活でさえ不便や苦痛を強いられているのに、社会機能が低下すればさらに困難な事態と向き合わざるを得ない。ここを支えようとする人たちがいる。
薬局(調剤が行える)、薬店(いわゆるドラッグストアなど)で働く人々がいる。
肉体労働と同時に接客を行いながらも、本来なら医師や看護師に向けられるべき期待を持たれたり批判を浴びたりもする。
エネルギー供給
電力会社のTVCMなどでは、部屋いっぱいの制御盤を監視している映像をよく見かけるが、発電・送電・配電などは、かなり泥くさい仕事(労働集約型の肉体労働)が欠かせない。
これらはガス供給、水道供給にも共通するし、そもそも電力供給が途絶えれば、今日のほぼすべてのガス・水道の供給も困難になってしまうだろう。
保健・衛生
生きていれば出るのが、ゴミやし尿である。
これらが放置されたり正しく処理されなければ、ただちに衛生上の問題が発生し、新型コロナウィルスとは異なる、別の病気、感染症などの問題に悩まされることになる。
現代社会では、し尿を農作物の肥料とするしくみは、(社会システム、産業システムとしては)皆無といっていいだろう。
水洗トイレが当たり前の生活者にとっては、あたかも日本全体がそうであるかのように思いがちだが、地域によって大きな差がある。面積当たりの人口が少ない地域では、下水道整備はかえって不経済だからだ。未整備の地域では「浄化槽」や「汲み取り」などのしくみが機能している。
そして、これらの回収手段で集められたし尿を適切に処理するために、汚水処理場が平常時からずっと機能しているのである。
ゴミについても「その辺に捨てる」ことに何の違和感もなかった時代が、わずか50~60年前までの日本にはあった。いまやゴミの質が大きく変わってきて分別収集が当たり前となっているが、ゴミの収集が少しでも滞れば、家や街にゴミがあふれ、大変不衛生で危険な状況を招いてしまう。
物流
緊急事態宣言が出されても、食料品スーパーやコンビニは基本的には通常営業されている。
「ウチの冷蔵庫はコンビニ」という生活形態の人も今や少なくないだろう。しかしそういった生活スタイルは、物流があっての賜物だ。
外出が自粛される中で有り難いのが通信販売だが、これもやはり、戸口まで運んできてくれる人があって成り立つシステムである。
食料品も通販も、トラックを中心とした物流の現場を支える人がいてこそ、あたりまえに維持されているのである。
時々、配送中で路上駐車のトラックに腹を立てている人があるが、一概に非難するのは間違いだろう。
公共交通機関
公共交通機関も原則としていつもどおりである。
外出自粛とはいえ、どうしても外出しなければならない人はいる。それだけでなく、ここに挙げたような社会機能を維持する人を支えるためにも、最低限の外出が必要な人もいる。その人たちの移動を黙々と支えているのが公共交通機関だ
我々は日常、鉄道、路線バス、タクシーなどを利用するとき、時間通り予定通りに移動できるのがあたりまえと考えている。なぜそういうことが実現できているのかということに、ほとんど意識を向けることはない。
「電車が来た!」、「10分も遅れてやっとバスが来やがった」などと自分本位の感覚で言ってしまいがちだ。
バスや電車は自動的にやって来たのではない。
人が、相当の技術と注意をもってここまで運行してきたのである。
特に自動車交通などは、線路を独占的に走れる鉄道とはわけが違う。
そもそも、「チャチャっと」動くことができない人をも包み込むのが公共交通機関の重要な使命の一つでもある。そしてあらゆる人々とシェアしているのが道路というものである。様々な外的要因にさらされた定時運行という、ある種の矛盾を理解する必要がある。
時刻表通り来ないバス、時間通りに移動できないタクシーを一概に非難するのは、成熟した人間の感覚とはいえないだろう。自分の段取りのアマさを棚に上げて立場の弱い人を非難するのは、人として醜(みにく)い。
鉄道、バス、タクシーで、自分だけが焦ってみても、ほとんど意味や効果はないということを知るべきだ。
警察・消防・救急
さまざまな事件・事故・トラブルはどうしても起きてしまう。自分が注意していれば避けられるというものでもない。それにこういった存在は、存在していることそのものにも大きな意味がある。
たしかに警察や消防を取り巻く不祥事もあるにはあるが、そのことで全体を論じてみても説得力は薄い。
警察や消防は、きちんと機能していなくては即座に社会崩壊につながりかねないがゆえに、我々にとってあたりまえすぎる存在となっている。
しかし、もし存在しなければ、正常に機能していなければ、いったいどんなことが自分の身の上に起き得るかということを、想像してみるだけでも意味はあるだろう。
情報ネットワーク
社会を支える情報ネットワークというと、第一に電話回線(有線・無線)であろう。そして次にインターネットというところだろうか。
これらはよく、水道や電力のネットワークにたとえられがちだが、違う点が一つある。
気体(または液体)のガス、液体の水、目には見えないが電力という、いずれも「物理量としてのモノ」を運ぶネットワークか、そうではないかという点である。
インターネットなどの情報ネットワークは、物理的には電流や電波の複雑で微弱な変化であったり、ものすごく短い時間における光の明滅だったりを、瞬時に遠方に伝えるものである。
だからこのレベルでは、電気・ガス・水道と同じように、「泥臭い」現場仕事を支えてくれる人が欠かせない。
と同時に、この物理量の変化を、人間にとって意味のある情報に仕上げていくために、本当に無数といってもよいほど積み重ねられている技術と理論と知識をもって支えている人々が必要なのである。
情報ネットワークの場合は、そういった積み重ね(レイヤー)のなかで働いている人も、情報ネットワークを支え、インターネットを支えるうえで必要不可欠である。
この情報ネットワークを支える人々がいなければ、物流も交通も、エネルギー供給さえ危うくなるのである。
まとめ
程度の差はあるものの、いま感染リスクに身を晒しながら働いているのは、ロボットなどではない。生身の人間である。
腹も減るし、休養も必要だ。家族もいるだろう。高齢者や子どもを抱えているかもしれない、障害者を抱えているかもしれない。
今回、緊急事態に身を挺して働いても、それに見合う必要十分な手当て(お金に限らず)も期待できないかもしれない。
いったい我々は「システム」という言葉をここ数十年でよく口にするようになってきたが、それは人間ではない何かが自動的に、勝手にやってくれているものではない。そこには必ず生身の人間が働いているのだ。
と同時に、その人たちもまた誰かに支えられている。
緊急事態宣言が出されたいま、我々は
「自分もあの人も、みんな支えあって存在できている」
ということを具体的にイメージしなければならない。
我々ホモ・サピエンスは、他者のことを想像し、協力するということができたからこそ、他の似た種に比べて弱い存在であったにもかかわらず、地球上で生き残り、子孫を繁栄させ、今日の高度な社会を築いているのである。
いま未知のウィルスとの戦いに、「自分ファースト」、「自分たちファースト」の発想でいては、やがて自らの首を絞める結果になりかねない気がするのである。