「ほーんなもんバイト雇って書かせりゃぁ、ええんだわぁ」と発言した人物がいたはずである。知事リコールの署名簿に自分の名前が無断使用されていると届け出る人が次々と現れ、さらには亡くなっている人の署名まで大量に出てきた。日本は、選挙や署名のICT化を真剣に検討すべき時期に来ている。
名古屋ブランド、愛知ブランドの失墜
愛知県知事のリコール(住民による解職請求制度)で大量の署名が偽造されていた疑いが濃厚になってきている。報道を見る限り組織的に行われたであろうことは、まず間違いない。
「少し離して書いときゃぁ、おんなし人間の名前書いとったってわかりゃせんわ」
「それこそ死んだ人間の名前でもええんだわぁ」
「ほんなもん、バイト雇って書かせりゃええんだわぁ。コロナで仕事ないヤツぁいくらでもおるでぇ」
たとえばそんな発言が出る話し合いの場があったはずである。今回は愛知から遠く離れた九州・佐賀県の、とある会議室で大規模な偽造作業が行われたようだ。
現在の知事をどう評価するかは全く個人の自由である。そして不適格であると考えるならば選挙権を持つ住民による知事の解職請求、いわゆるリコールを行うことができる(地方自治法に明記。国政レベルではこの制度は採用されていない)。
一定数の署名を集め、これを選挙管理委員会が有効と認めれば住民投票が行われる。そしてその結果によっては都道府県知事や市町村長を解職させることが出来る。日本の自治体住民の重要かつ強力な権利である。
しかしその重要・強力な権利行使にあたって住民側が自ら不正を行っていたということになれば、(自治組織外部からの教唆や扇動だったとしても)民主主義の放棄や否定にもつながりかねない。民衆による権力監視を否定する行為は、民主主義に対する重大な挑戦だ。
今回の出来事は、「気に入らない人間はどんな手段を使ってでも排除すればいい」という論理を持った人物が、一定数存在していることの証明である。どうも当該地域の住民ではないような人物まで加担しているようだ。さらにそれなりのカネが誰かから、どこかから投入されていることは間違いない。だがその発想と計画はあまりにも幼稚であった。
当然ながらこういった発想を持っているのは一部の人々であって、愛知県民・名古屋市民の大部分は忸怩(じくじ)たる思いなのではないだろうか。なぜなら日本全国に「愛知」そして「名古屋」という地域に住む人々の自治意識、自治能力が誤解されかねないからである。
愛知、そして名古屋という「地域ブランド」にも傷がついたといえるのではないだろうか。
不正確な民意を反映するためのコスト
筆者は自治体や国政の選挙をICTの技術力で進化させるべきだと考えているし、以前から少なくともそのための議論を盛り上げるべきだと主張している。
知事解職を目指して署名の偽造を行った罪は重いけれども、同時にこれは民主主義とその手続きについて、我々が真剣に考えてこなかったがゆえに起きた事件ともいえる。
なぜなら選挙や署名、住民投票といった民意を反映する仕組みが、前時代のまま放置されているからである。
民主主義の理想を言うならば、その集団に関わる全員が議論や意思決定の場に参加できるのが望ましい。しかしごく小さな集団ならともかく、現在の日本の自治体や国政においては物理的に無理である。
そこで有権者を定義し、選挙を行い、代議員や首長を選び出して政治や行政を信託(信じておまかせ)している。
ここでちょっと思い出して欲しい。
選挙というと、家に送られてきたハガキを持って近所の小学校などに行き、本当にそれを持参した人物が本人かどうかの確認もあいまいなまま、投票用紙が渡されている。
それも(特殊な場合を除いて)投票所や期日前投票の場所へ、一定の期間内・時間内に出向かなければ投票が出来ない。これでは高齢者や体の不自由な人、そんな時間や労力が取れない人は、はなから参政権の外に置かれていることになる。そもそも今の日本には、ホームレスや住所を明確にできない事情がある人々も少なくない。そんな人たちは事実上投票が出来ず、参政権が剥奪されている状態といえる。
「投票にも来れん(来ん)人間は黙っとけ」という前時代的な姿勢を許容してしまっているのだ。
そうして毎回、選挙ポスターを張り出すための掲示板をあちこちに立て、多数の投票所を開設して人を配置しなければならない。こういった選挙にかかるコスト、つまり民主主義のコストはいったいだれが負担しているだろうか。もちろん税金である(3月12日筆者注:千葉県袖ケ浦市では一人の人物に投票用紙を2枚渡してしまい、そのまま投票されて取り消せないという人的ミスも発生している)。
ちなみに立候補者から没収されることもある供託金という制度もあるが、選挙を実施するためのコストに対しては微々たるものでしかない。それどころか(落選することを承知で)売名行為としての立候補に必要な代金と考えている者すら存在する。
民意の反映手続きをICT化せよ
筆者が選挙やリコール署名などのICT化を主張する理由は二つある。
ひとつは、現在のしくみにおける選挙結果や署名が本当に正当で精密な民意であるかどうかが疑わしいこと。もうひとつは選挙そのものにかかるコスト、すなわち民主主義を維持するためのコストを圧縮できるのではないかと考えているからである。
本人確認の技術、データの管理・保全や分析など、現在のICTは一般の想像を超えるところにまで達している。もちろんそのシステムを構築するためのコストは莫大だろうし、維持コストも大きくなることは想像できる。
しかし冷静に考えてみれば、より精密な民意を短時間で反映でき、投票所入場券の郵送や投票所開設も不要となり、今後にわたってシステムを使っていけるのだからトータルコストを抑えられると思う。それにシステムは(法的手続きを経れば)いつでもすぐに稼働できるから、選挙も署名も世論調査もタイムリーに行うことが出来、国政や地方自治がより民主的に進化する。
さらにはICTによって駆動する民主主義国家のありようを、世界に先駆けて試行・実施することによって、日本の国際的な地位向上にも貢献できるのではないかとさえ思っている。
もちろんICT化されたシステムに対応できない人もあるだろう。しかし、この部分を考慮してもメリット、ベネフィットのほうが大きいと考えている。
たとえばスマホやタブレットで投票・署名できるようになれば、寝たきりのような人でも、家族や介護者の助けを借りて投票することもできる。世界中どこにいてもインターネットにつなげさえすれば有権者として意思表示できる。
やや専門的になるが基本的には銀行ATMのような専用回線を構築することが重要で、インターネットは副次的な位置付けとしたほうがいいと考えている。
さて、こういう話をするとたいてい「その仕組みを悪用する者が現れる」とか「マイナンバーと関連付けて個人の思想信条が暴露されたりコントロールされたりする恐れがある」「しょっちゅう首相などが交代していたら国政が不安定になる」という意見が出る。
だがこれらの意見は、技術、信頼、手続きを混同した議論である。本人確認や多重投票の防止、データ保護など個々の技術および実現方法をいちいち挙げている余裕はないが、技術そのものはもう十分現実的なレベルに達してきている。
たとえばマイナンバーカードが普及しないのは、技術が信頼できないというよりも、これを運用管理する主体すなわち特定の立場の人間たちを信頼できるかどうかという問題が、昨今の数えきれない疑惑や不祥事と重なるからであろう。ただ運用管理する者による不正を防止・検出・記録・検証する技術はある。
また、短期間で代議員や首長が入れ替わると社会が却って不安定になるという心配は、投票システムの問題ではなく、どう運用するか(どう使うか)の問題である。
従来型の選挙・署名のしくみに必要なコストはもちろん税金でまかなわれる。そしてその仕組みの中でメシを食っている(国民が養っている)人々もいるのである。
新しい仕組みに転換・進化していくことは、当然ながら様々な不安や疑問も出てくる。このこと自体もまた、民主的に議論がなされなければならない。ICT選挙の実現可否は別としても、筆者は少なくとも選挙・署名のICT化について、関心や議論が高まっていってほしいと願っている。
21世紀の民主主義国家を生きる我々は、つねに「民主主義のコスト」をにらみながら、限りなき直接民主制へのあしおとを意識しておかなければならない。