新型コロナウィルスの感染拡大に関連した多くの問題に対して、さまざまな批判が挙がっている。
しかし批判といいながらその実、不安と苛立ちの中から出てくる単なる文句や、根拠も提案もなく、ただ騒ぎ立てるだけの「批判」もある。
いま日本人は、批判精神とはなにかを再確認し、脊椎反射のような文句ではなく、視野を広くし、見識を深め、建設的な議論のための批判を提示しなければならない。
「10万円」の給付範囲
「一律10万円」の配布が決まる前後から、さっそく「政治家にも?公務員にも?富裕層にも?年金受給者にも?生活保護受給者にも?」という声が聞こえてきた。
確かに公平公正の原則からいえば、「これまでと比べて収入が減らない人や、じゅうぶんな経済力がある人にまで10万円を給付するのはどうよ?」というのは正常な感覚である。
しかしいま必要なのは、何よりもシャレにならないレベルで困窮している人々への一刻も早い現金給付である。
公平公正の担保については、社会がある程度落ち着いた後に対応できるのではないか。
国会議員などの政治家には自主返納を国民に見える形で実行してもらう。富裕層に対しては税制の臨時措置、年金受給者や生活保護受給者については、少額での分割返済(一定期間にわたる支給額の減額)でバランスをとるなどが思いつく。
もちろんこの「調整」のための議論の時間は(給付後に)必要だし、事務経費を含めたコストは発生してしまうだろう。また仕組みを逆手に取るような不心得者もある程度は発生してしまうかもしれない。しかしそれを考えてもなお、困窮者へのスピードが優先されるべきではないだろうか。
「後手」と批判する人々
新型コロナウィルスに対する政府や地方自治体などの対応の遅さを批判する人は多い。しかし「後手に回った」という批判は、困難な問題が起きたときに持ち出しやすい論法だ。
クルーズ船ダイヤモンド・プリンセスの件では、あのタイミングにおいて素早く、かつ強力な措置をとるような話があったとした場合、やはり反射的な批判が噴出していたのではないだろうか。
「そこまでする必要があるのか?」というやつだ。
かりにあの時、疫学的にはまことに理想的な対応がとられ、そのことによってこれまでとほとんど変わりのない日常を送ることが出来ていたとしても、「あれほど過剰な対応が必要だったのか?」、「国民生活を圧迫したことの責任はどうなる」とやはり批判好きな人は批判していたのではないだろうか。
もし、そういった説明しにくい批判にさらされることを、政治や行政が恐れて及び腰になっていたとしたら、悲しい話である。
「鳥インフルエンザ」という言葉とその一連の報道を思い出して欲しい。
あの時、白い防護服の人々が鶏舎とその周辺に展開し、白い消毒剤を撒き、たくさんの鶏を殺して土に埋め、指定区域に出入りする人や車に対して、そこまでやるのかというほど徹底的な対応を行っていた。
あのように初期段階で徹底的に封じ込めたからこそ、たとえば感染した鳥の卵が流通にのったりすることもなく、ほぼいつもの社会が回っているのである。感染症の防御とはそういうものだ。
ましてや今回は、わからないことが多い新型コロナウィルスである。「対応にバタバタ感がある」という批判を聞いたが、それはあたりまえではないだろうか。
「後手批判」をする前に、まずは目の前の対応を優先し、同時にこれを記録・記憶し、後の落ち着いた時期にきちんと検証・議論すればいい。その時に過去に学んで建設的な批判をすればよい。
確かに現状に一言モノ申しておけば、あたかも一定の見識があるかのように装うことが出来たり、自己満足に浸ったりすることは出来るかもしれない。
しかし、世の中の問題点や矛盾点を嗅ぎつけて騒ぎ立てる能力はあっても、その問題を解決するような知恵や行動を見せられないのであれば、本来の「批判精神」にはほど遠い。
まとめ
政権を擁護する気などないが、あまりにも反射的で思い付きの発言をしてしまう我々日本人は、どうしてこうなってしまったのか。
わが身の不幸や不都合はなんでも人のせい、社会のせいにして、わかったような口を利くのは、勘違いした批判精神である。
批判は「批(くら)べて、判ずる」という意味だそうだ。本来ネガティヴな意味に限定されているわけではない。問題に対するあらゆる面からの指摘を皆で出し合うことによって、その問題を立体的に浮かび上がらせ、解決にもっていくための議論の材料を提供するものと考えられないだろうか。
単に相手を叩きのめすのが目的なら、もはやそれは批判などではなく、心理的な幼さの表出でしかない。
言いたいことが何でも言える社会は保証されなければならない。
しかし、誰もが容易に言葉の影響力を持ちうるようになった結果、日本人はものごとの全体をとらえてじっくり思考する方法すら忘れ、思いつきの言動と反射的行動で生きるクセがついてしまっているのかもしれない。そしてそれを指摘できない大人世代は、戦後のどこでそうなってしまったのか。
自分たちが生きている社会の仕組みさえ変えてしまいかねない感染症に対しても、基本的なものの見方や考え方が問われる。