ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

新型コロナ、いま宗教者に何ができる

2020年04月14日 | 沈思黙考

新型コロナウィルスに関しては、日本や世界でさまざまな対応が行われ、反応が起きている。我々はまず、あくまでも科学的に状況をとらえ、科学的に思考し、科学的に行動しなければならない。 と同時に感染症は、病気だけでなく心の不安も拡大させるということにも注意を払っておかなければならない。

感染症は心の不安も拡大させる

いきなり個人名を出してしまうが、いまマスメディアで引っ張りだこになっている女性がいる。医学博士の岡田晴恵さんだ。
白鴎大学教育学部の教授という立場にあり、専門は感染症学、公衆衛生学、そして児童文学ということらしい(以上、白鴎大学公式サイトより)。 元は国立感染症研究所の一研究員だったはずだ。

もう一人、國學院大學教授の大久保桂子さんという人がいる。
文学部史学科に属し、専門はイギリス近代史である。著書も多い(以上、國學院大學公式サイトより)。

さて、話は2009年の春にさかのぼる。
NHK教育テレビ(現在のEテレ)で放送されていた高校生向けの番組「高校講座」のなかで、この二人はインタビュー取材を受ける形で出演されていた。
番組は、高校の「世界史」と「生物」という異なる教科をミックスしながら、物事を考えてみるというコンセプトだ。感染症というもの、そしてそれに向き合ってきた人類の歴史について、わかりやすくまとめられていた。

その中で二人は、

  • 感染症(ウィルスの蔓延)は初期段階の対応に失敗すると手が付けられなくなる
  • 人類の歴史とは、たびたび起きてきた感染症との戦いに生き残った人間と、その子孫の歴史である
  • 感染症が拡大することによって、人の心や世界観なども崩壊していく
  • 21世紀の人類は、英知を結集してこれに向き合っていかねばならない

といったことを話されていた。

ところで「集団免疫」という言葉がある。
不謹慎を承知で敢えて言えば、「ある程度人間が死ねば、事態は収束する」という意味である。

悲観的に準備し、楽観的に行動する

どうか冷静に状況をとらえ、冷静に考えてみてほしい。
「感染しているかどうかは検査をしてみなければわからない」ということ。
そして「感染していても本人に自覚のない場合が少なくない」ということ。
この二点から導き出されるのは、我々がとらえることも、感じることもできない部分で、この感染症は(いまも)拡大しつづけているということではないだろうか。

本稿執筆時点ですでに複数の警察官、国会議員秘書の感染が確認されている。医療崩壊はすでに一部で始まっているといっていい状況だろう。その先にあるのは社会機能の崩壊である。
いままであたりまえと考えていたこと、気にも留めていなかったことが機能しなくなり、我々が「ただ普通に生きる」ことさえ困難となる。

マスメディアで口にすることは難しいだろうが、各国の現状を踏まえ、科学的、歴史的知見も併せて考えれば、残念ながら日本でも、感染による一定の死亡者数、医療崩壊による間接的な死亡者数は覚悟しなければならないかもしれない(さらにいえば発端を同じくした事件事故も発生するかもしれない)。

そうなれば、社会で働くということの意味、生きることの意味、世界観、私たちの命、そういったものが人々の心の中で崩れ始め、事態はさらに悪化する可能性がある。

現在すでに、あれこれ例を挙げるまでもなく、(感染症そのものとは違う)心の問題が起き始めている。
最初に「いま我々は、科学的に現状をとらえ、科学的に思考し、科学的に行動しなければならない」と書いたが、いまこそ宗教者がその存在理由を、価値を、社会に示してほしいというのが個人的な願いである。

正しい、宗教教育

人間が人間であることの証左の一つは、高度に抽象概念を思考できる大脳皮質(大脳新皮質)で、自分の存在やこの世界をとらえているところである。

たいへん賢い犬や、科学番組などに出てくるチンパンジーなど、驚くような動物たちもいるが、彼らは決して「自分はいつか必ず死ぬ」、「死んだらどうなるのだろう」、「幸福とは何か」、「そもそも自分が生まれてきた意味は何か」、「『私』とはいかなる存在なのか」、「この世界を決定づけている『何か』は存在するのか、一体それはいかなるものか」といった思考はしない。
それゆえ彼らに宗教は存在しない。

人間はこういった高度な思考を持つからこそ、宿命的に悩みや苦しみも同時に生まれてくるといえそうだ。ならばそこに、何らかの方法や形で説明をつけてくれるものが必要になる。そしてそれが人の癒しとなり、希望となり、社会や世界の安定・平和へつながっていくものであるとすれば、宗教は科学であり人間にとって必須のものである。

しかし残念なことに日本では、「正しい、宗教教育」が一部を除いてほとんど存在していない。
ここでわざわざ読点(、)を入れたのは、正しい宗教を教えようという意味ではなく、宗教に関する正しい教育が必要である、ということを示したいためだ。

「日本人は無宗教」ということを聞くことがある。
確かに個人の心の問題であるから無宗教の場合もあるだろうが、多くの日本人はきっと「状況によって変化します教」とでもいったほうがよいかもしれない。
そうでないとすれば、「無宗教」という言葉の意味を、いかなる宗教団体にもかかわらず、いかなる宗教活動もしていない、という意味で使っているのかもしれない。

しかしこういった姿勢は、
「私には哲学は存在しません。生きるとか死ぬとか、幸福だとか考えたこともないし、考える方法すら知りませんね」といっているのと同じで、自ら動物並みであると宣言しているようなものだ。
「いったい日本人には哲学はないのか?」と外国人に見下されるゆえんでもある。

日本の悲しさは、宗教というものを冠婚葬祭と年中行事の舞台設定、あるいは人や社会を惑わせ金品を搾取する集団、といった程度のまことに浅はかな理解に押し込めてしまっていることである。
わかりやすい例が、過去にあったオウム真理教に関する報道や解説だ(オウム真理教事件を知らない世代はここをクリック)。
あの時、「社会の中で正常に機能している宗教団体」と、「宗教に名を借りた殺人集団」の違いをきちんと説明できる報道機関はほぼ皆無だった。 考えてみれば当然である。報道する側の人間も、受け取る側の人間も、宗教というものの基本理解がない人がほとんどだからである。

戦後、経済的成功のみを目指すよう方向づけられた日本人にとって、思想や哲学などといったものは、現実生活に役立たない、偏屈者の脳内遊戯としか理解できなかったのかもしれない。日本人の悲しい歴史だ。

一般人としての宗教者こそ

ここでいう「宗教者」とは、なにも法衣をまとった聖職者だけを言っているのではない。また何らかの宗教団体に入会・登録している人だけでもない。
宗教的思想に基づいて、他者を癒し、元気づけ、希望を持たせる、市井(しせい)の一般人すべてを含んでいる。

「いやいや、私なんかに人を癒したり、ましてや希望を持たせるなんて、できるわけがないじゃないですか」と思うかもしれないが、それは違う。ただ「安心できるご近所さん」であればOKである。
難しい言葉を使ったり、ましてや奇妙な物語を繰り出したりする必要などまったくない(逆に不審がられたり、人々を非科学的な方向へ誘導してしまう)。

いま人々にとって必要なのは、専門的で厳密な、一面の真実ではない。
私たちはどうするのがベストであるのか。どう考えることがよいのか。それを普通の言葉で語ることだ。ましてや専門的な情報の受け売りは、かえってバカっぽくすら感じられる。

福島第一原子力発電所のメルトダウンの時、放射性物質といった見えない恐怖に対する専門家たちの説明は、人々の理解を促進させるものではなかった。
それは言葉が難しいというよりも、専門家たちがそれぞれの立場を踏まえたしゃべりで、一面の真実を、逃げ道の多い言葉を使って語っていたからである。
それは今回も、同じではないだろうか。

※専門家は当然ながらその分野での正確性が求められる。そのため一般人に分かりやすく説明しようとして言葉や表現を工夫すると、「厳密にはウソになってしまう」という場合がある。
噛み砕いて教えてくれる専門家が、しばしば他の専門家から批判を浴びやすいのも、こういった事情によるのだろう。
将棋の名人が自分の考え方などを説明するとき、「まぁ」を多用したりするのも、「厳密にはそう言い切れないんだけれども」というエクスキューズがうかがえる。
専門家にとってわずかでも正確でない点があることは、すなわち全体的な誤りとなるからである。

「地域の力」をつけよう

今後、より社会が不安定になってきて、行政にも期待ができない状況になってくるかもしれない(政治にはすでに期待が持てていないかもしれないが)。
そうなったとき大きな力を持つのは、安心できるご近所さん、そして信頼しあえるご近所さんなのである。なにしろ物理的に近い位置で人生を過ごしているという、生物的関係があるからだ。

「でも個人にできることには限界があるなぁ」 という意見もあるだろう。確かにその通りだ。
したがって、ある程度は組織的なつながりを持ったご近所であることが理想的だし、現実的だし、効果的である。

昔なら町内会だとか青年団・消防団だとかがそういった役割を果たしていたかも知れないが、現代社会の(特に都市部の)それは、必要最低限の機能を維持するために、行政の下部組織などとして儀式的に活動しているのが多くの実態であろう。

そこに有効なのは、宗教的・哲学的な思想や信念をベースにしながら、ご近所とゆるく連携するような人間関係のあり方ではないかと思う。

疑心暗鬼になり、怯えながら、周囲に疑念を抱きながら生活するのでは、身の回りはすべて敵になってしまい、自ら孤立を深めることになる。
これはまさに、新型コロナウィルスの思うツボではないだろうか。

あいさつ一言でもいい。ちょっと手助けするだけでいい。
笑顔が出せればもちろんいいが、マスクで見せられないかもしれない。そんな時は明るい声を出せばいい。これが地域の力だ。

「悲観的に準備し、楽観的に行動する。」
私の好きな言葉の一つである。


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