オリンピックに続いてパラリンピックが閉幕した。どちらにも感動を呼ぶ多くのシーンがあった。選手はもちろん数多くの支援者、関係者のひたむきな努力があった。感動に震えた人、涙した人も多いはずだ。
しかしその感動によって現状に対する問題意識が萎えてしまっているとすれば、それは操られやすいタイプといえるかもしれない。
「それ」と「これ」は一緒か別か
オリンピックが始まる前、日本では「オリンピックなどしている場合か」という意見と、「こんな時だからこそ(感染対策をしたうえで)感動のオリンピックを」という意見が議論されていた。
しかし日本社会を駆けめぐった情報量としては、およそ「議論」などとは言えないような言葉のやり取りの方が多かったのではないだろうか。
オリ・パラ開催に賛成の人々の中には「開催に反対するということは、すなわち選手に対する冒涜であり、障がい者差別である」という結論に結びつける向きすらあったようだ。
「崇高なるオリンピック、パラリンピックの精神・歴史を知らないのか」と短絡・混濁してしまうようなパターンもあった。
議論になっていない。
残念なことだが日本では、高校までの教育段階において議論について訓練する機会が乏しい。その結果、社会人になってもムダに時間を浪費する会議や、何のために集まったのかわからない時間が行き過ぎていくことが少なくない。さらにそのコストが製品やサービスにのせられてしまうため、自分で自分の首を絞めているような社会的悪循環を起こす。
また社会人になってしまうと、新しい概念を獲得するような勉強をやめてしまう人も多いため、時代を経ても社会全体としてほとんど成熟できない。
議論とは、科学的・論理的な思考作業である。正確な言葉を使いながら、物事をたて分けて検討・整理し、そのうえで問題解決へ向けて再統合をしていく過程である。
「それはまた別の問題ですよね」といわれても、アタマから「それもこれも一緒だ!」という思考しかできないとすれば、多くの人に受け入れられる結論には到達できない。結論だけが一致するリーダーに利用されるか、情緒的に盛り上がる人々とともに自己満足にひたる結果になってしまう。
放置死、家庭内感染、党内選挙
令和3年の日本は異常な状況に置かれている。
放置死や家庭内感染が深刻になっているというのに、6月16日の閉会以降3ヶ月近く(正式には)国会は開かれていない。そうして与党では自分たちの組織内勢力争いに汲々としている。やむを得ずというところか、マス・メディアも政局分析に懸命である。
関東地域以外に住んでいたり、あるいは都市部以外に住んでいたりするとあまり緊張感や疑問がわかないかもしれないが、令和の日本が異常な状態に置かれていたということは、やがて歴史が必ずそう判断するはずだ。
放置死や家庭内感染の実例は、もういちいち挙げるまでもないほど酷い状況になっている。
特にいま家庭内感染が問題になっているが、これはすなわち家族が一緒に暮らすことが難しくなるということであり、あらゆる意味で家族がまるごと社会から切り離される可能性を孕(はら)んでいるということである。
特に小学生以下の子どもを持つ家庭は戦々恐々としている。日々の生活を自分だけでやっていけない子どもが取り残される事態が想定されるからだ。
この問題も一人暮らしや大人二人ぐらいで暮らしていると切迫感がないかもしれないが、筆者が別稿で述べたように、世帯単位で感染が広がっていった場合、社会の中で仕事をする人が減少すると同時に、その世帯をサポートする人が必要になるという負の連鎖が加速していくことになる。それは社会機能が早い時期に縮退・マヒし、ほぼすべての人の生活に影響が及ぶことに他ならない。
医療と救急搬送はすでに破綻し始めているが、そこに有効な手を打つためにはどうしても法律の力が必要だ。すなわち臨時的なものも含めて法律を成立させたり改正したりする必要がある。
国会を開くことに消極的であるという姿勢は、「国民の生命・財産より大切なものがある」と宣言しているようなものではないだろうか。これは、国家が国家たる要件を備えなくなっているということだ。
責任ある現場を投げ出し、自分たちの勢力維持・権力維持の対策を図ることが何より大切だという考えが、この国の指導者層の考え方らしい。
と同時に、結果としてそれを許してしまっているのは、我々有権者の問題意識の低さであるということも忘れてはならないだろう。我々は自分で自分の首を絞めているという面が少なからずあるのではないか。
いまだに「コロナ対策は自治体で何とか出来るのではないか」と言っている人がいるようだが、医療も教育も根本は日本国法の下で行われている。日本の都道府県や市区町村は、昔のような「藩」、あるいは「アメリカの州」のような強い権限や独立性はないのである。
ちなみにアメリカの州はそれぞれの州憲法、税制、教育システムを独自に持っている、いわば小国家だ。州知事と都道府県知事はまったく次元が違うのである。
まとめ
オリンピックが閉幕しパラリンピックが開幕しようとしていた8月中旬、TV取材を受けるコロナ病床の医師からは公然と、「看取りをどうするかが問題になってきている」との回答が紹介されていた。9月上旬のいま、その状況から改善に向かっているとはとても言えるような状況ではない。
あなた自身やあなたの大切な人が、コロナとは直接関係のない痛みや苦しみに見舞われても、あるいは不慮の事故などでケガを負っても、これまでのような医療サービスが期待できなくなってきている。
仮にオリンピック、パラリンピックが開催されたことの是非を置いておくとしても、その感動によって問題意識がかすんでしまっているようでは、「あかり」はさらに遠のいていく。
お祭り気分で嫌なことを忘れてしまおうとするのは日本人の典型的な精神構造なのかもしれないが、それでは今後も引き続き精神的、心理的成長が出来ない日本人の再生産になってしまう。
感染症はしぶとさと加速度を持って、ひたひたと我々の社会に浸透してくる。しかし「令和の敗戦」を招くようなことがあってはならない。
国家的イベントの開催によってあらゆる意味で犠牲を払うことになった人々のことや、今後も影響を受け続けるであろう若者や子どもたちの不安と苦しみも忘れたくはない。
ある映画で、権力者の世界観を象徴するようなセリフがあったことを思い出す。
「人に生まれて最も愉快なことは、人を操ることだ」。