注:写真と本文は関係ありません。
我々はいま、昭和初期の「そこへ傾斜し始める時期」と同じ潮流に立ち会っているのではないだろうか。
国政選挙の期間中に元首相が銃撃されて亡くなるということが、誰にとっても衝撃的であることには違いない。しかし同時に我々は、じつに不思議な状況を目撃していることに気づかなければならない。それは、まだ犯人の動機や背景もハッキリせぬうちに「暴力による民主主義への挑戦である」とマスメディアを中心に気炎を上げだす動き、シロウト目にもわかるほど稚拙な警護・警備体制、そしてなにより、政治家の非業の死と、生前の「実績」を差し引き計算しようとする空気である。さらに我々は「勲章」や「国葬」といったものが、令和のいま、いかなる意味を持ち、どんな作用を及ぼすのかを真剣に考え抜かねばならない。
INDEX
- 「民主主義への挑戦」を叫ぶ腹の底
- ふしぎな警備体制
- 銃弾に倒れたことは「禊(みそぎ)」なのか
- 法的根拠のない「勲章」や「国葬」
- 静かで激しい民主主義への決意
「民主主義への挑戦」を叫ぶ腹の底
元首相の銃撃事件そのものをここで解説する必要はないだろう。筆者が不思議に感じたことの一つ目は、「これは民主主義への挑戦だ!」という強い反応が、犯人の動機や背景もほとんどわからない時点で急激に盛り上がった点である。
そしてそのことが、別の結論へと導いていくための格好の材料、切掛けとされているのではないかという危惧を持ったのである。
国政選挙の期間中、それも市民への演説中に銃撃されるなどということは、間違いなく反民主主義的な出来事であり、近代国家としてはあってはならないことである。たとえ元首相とは反対の思想・立場をとる人であってもこの部分は一致している。
しかし、ことさら「民主主義が脅かされている」が強調され、「だから強い統一、強い力を」という流れに持って行こうとする潮流が作り出されている気がしてならない。それはかつて日本人が目撃していた、昭和初期の傾斜の始まりにも見えてくる。
筆者のくだらない杞憂であることを願うばかりだが、この種の傾斜は、多くの人々がそれと気づかぬうちにひたひたと進んでいくものである。それは世界史も含めて歴史が雄弁に語っている。
そうして民衆の中に、「これは正しい道なのだ」という誤った意識が植えつけられ、「民主主義による決定」へと導かれていくのである。
ヒトラーやナチスは、あくまでも民主的手続きによって誕生してきたのだということをいま一度思い返しておきたい。
銃撃事件の翌朝、当然ながらマスメディアは一斉に事件を特別対応で報じた。筆者の管見では、新聞が異様に「民主主義に対する挑戦」を強調していたように感じた。
しかしその時点で、犯人個人が(あるいは背後組織が)政治思想的な動機をもって蛮行に及んだのか、それとも特殊な事情を抱えた人物の個人的な動機によって引き起こされたものなのか、まったくわかってはいなかったのである。
そうであるにもかかわらず、関連記事に紙面を割き、民主主義とは何かと言ったようなことを社説欄などで滔々(とうとう)と書き綴っていた。
着実に購読部数を減らしてきている新聞というメディアが、今こそ自分たちの存在意義を強調するタイミングだとばかりに、叫び声を上げたように感じたのである。
ふしぎな警備体制
不思議と言えば、誰もが即座に感じたであろう要人警護の稚拙さである。
元首相は、たとえ首相をやめたとはいえ、政権に大きな影響力を持つ重要人物であることに違いはない。
また常識的に考えても、元首相を賞賛する人々がいる一方で、決して少なくない人々が腹の底で様々な形の不満や怨念のようなものをたぎらせているといっても間違いはないだろう。
そんな人物が街頭で演説するにあたって、あの警備体制である。そして一発目の破裂音(発砲音)の直後に固まってしまっていたり、おろおろしたりしている体たらくには、日本の公安は正常に機能していないのではないかという疑念が残ってしまった。稚拙な警備には何らかの意図的な背景があったのではないかという妄想さえしてしまいそうなレベルだ。
筆者はもちろん警護や警備の技術はわからないが、ゴルゴ13(架空の人物の通称であり、超人的スナイパーを主人公とした著名な劇画のタイトルでもある)を想定する必要はないにしても、元首相と背中合わせに張り付くようにして2名ほどの屈強なSPが立っていて然るべきではなかっただろうか。急きょ決まった現地訪問という面もあるかもしれないが、そうであったからと言って許されるものではない。
要人を守れなかったということで、それでは一般市民の安全を守れるのかといった不安も感じてしまう。民主主義を揺るがしたのは、犯人というよりも日本の公安ではなかったかという見方も出来そうだ。
銃弾に倒れたことは「禊(みそぎ)」なのか
筆者が最も危惧していることは、元首相が悪い意味で為したこと、為さなかったことを、まるで今回の蛮行被害によって差し引き計算するかのような空気である。
生前の政治家としての結果と、今回の事件を同次元に置きながら、「引き算」あるいは「チャラ」にしてしまおう、忘れることにしようとする動きに対しては、十分注意をしておかなければならない。そのような発想こそが民主主義への冒涜であろう。
神道には「禊(みそぎ)」という言葉がある。
罪や穢れを落とし自らを清らかにすることを目的とした水浴行為のことらしい。転じて何らかの社会的ペナルティを受けた政治家などが、引き続き影響力を発揮しようとしたり、具合の悪い歴史を忘れさせようとしたりする前後で関係者が使う言葉でもある。
簡単に言ってしまえば「痛い目にあったんだから、もうチャラでいいじゃねぇか」ということである。
いっぽう西洋の宗教であるキリスト教では、「告解」とか「懺悔」という言葉を聞く(おもにカトリックや正教会)。
一般的な日本人にとっては「免罪符」という言葉が思い出されるかもしれないが、ここには少々誤解がある。「金を払って免罪符を買えば罪はチャラ」なのではない。教派によって差はあるが、基本的には神父の前ですべての罪を白状するという段階がある。つまり、間違った行いを客観的な場に提示し見つめる、よく考えるというプロセスが存在するのである。
日本ではどうも、こういった発想が根付きにくいのかもしれない。
「それなりに痛い目にあったんだから、もうそれ以上ほじくり返すのはやめておこうや」とでもいった感覚である。
しかしこれは、民主主義とは対立する発想ではないだろうか。
何が誤りであったのかを明確な言葉として整理し、それを踏まえてよりよい未来へ進むのが本来あるべき姿なのではないだろうか。
蛮行に斃れた元首相を哀悼する気持ちは、民主主義国家に生きる正常な国民であれば持って然るべきである。
しかしそのことと、政治家として何を行い何を行わなかったのかを「一緒くた」にして考えてしまうことは、とうてい民主主義的思考であるとは思えない。
ドサクサまぎれのイケイケ精神になってしまうのは、とうてい知的な国民とはいい難い。まぬけな大衆である。
日本ではアカウンタビリティ(accountability)という言葉を「説明責任」と訳してしまっている。これでは、政治家が「説明ならちゃんとしてますよ。なぜならああで、こうで...」と、のらりくらりと喋って終わりである。
そのうち「こんなに説明してもわからないのはあなたたちですよね」とか「審議は尽くされた」といった文脈で、時間切れ作戦に持ち込まれてしまう。
アカウンタビリティとは、「説明すればOK」という意味では決してない。
何が間違っていたのかを皆の前で明確にし、そのうえで、その時点・地点まで立ち戻ってやり直すための手続きなのである。よりよい未来を作るために行われるべきプロセスなのである。
だからこそアカウンタビリティにおいては、失敗をした本人や関係者を責めることはしない。それはレスポンシビリティ(responsibility)において検討されるべきことである。
筆者は常々、この違いを小中学校の教員が理解し説明できなければ、本当の意味で日本に民主主義が根付くことはないと考えている。
法的根拠のない「勲章」や「国葬」
あらかじめ言っておくと、「法的根拠があるから正しい」とか、「法的根拠がないから間違いだ」などという、単純な発想でものを考えてはならないだろうというのが筆者の考え方の基本にある。
いま、この(国内・国外の)状況で、元首相に勲章や勲位を送り、国葬を行うということが、国内外のあらゆる立場の人々にとって、いったいどういう意味を持ってくるのかについて「考え続け」「議論し続ける」ことが大切であると考えている。
やや失礼な例え方になるけれど、勲章というモノ、勲等(勲位)というステータスなどの「栄典」は、いわば「あんたはエライ!」と、国家元首が対象とする人物に授与するものである。
ただこの制度には根拠となる明確な法律が存在しない。しかし別の意見では、現存するさまざまな法律から法的根拠があると解釈できる、という構造の議論となっている。
いずれにしても議論は継続しているのであって、はっきりとした決着は見ていないのである。
たとえば勲章は天皇が授けるものではあるが、実質的にはそのときの内閣が判断をしている。授与という具体的、儀礼的なアクションは天皇が行うのだけれど(栄典を授与することは憲法で天皇の国事行為となっている)、天皇が内閣の判断に異を唱えたり、自分の意見を表明したりすることはないのである。
国葬についても、その時の内閣の決定で行われるという意味でほぼ同様である。
その時の内閣の決定というものが、いかに大きな力、意味を持つのかということをあらためて確認しておきたい。
と同時に戦争に傾斜していった歴史を振り返る時、まさにこの、責任の所在をあいまいにした日本の構造、すなわち天皇という存在をとりまく人間たちが決めたことを、実質的には空なる存在による認証・聖断なのであるという論理によって、この国の行く末を決定づけているということに、(良いか悪いかは別にして)日本人はいま一度認識を新たにしなければならないと思うのだ。
さらに付け加えるとすれば、日本人を10万人余り死なせた東京大空襲の作戦指揮をしたアメリカ人に、「勲一等旭日大綬章」が昭和39年(1964年)当時の政府から贈られているという事実を知っておいてムダではないだろう。
その時の理由としては「航空自衛隊の創設に貢献したから」ということらしいが、果たしてそこにはどういう計算、判断があったのだろうか。
静かで激しい民主主義への決意
国連安保理や大相撲の土俵上での黙とう、歴史上の類似した事件の映像などを見せつけられながら、いつのまにか問題意識が薄らいでしまうのだとすれば、皮肉な話だがそれは、典型的な日本人ということになるのかもしれない。
いったい日本人は泣き寝入りが得意なのだろうか。
自分は断じてそうではないというのであれば、腹を据えてしっかりとした問題意識を持ち続けなければならない。蛮行に斃れた元首相を哀悼しながらも、政治の結果については冷静な思考力を持ち続けなければならない。
本稿執筆時点で今回の銃撃事件の実行犯には、政治思想的な動機や、実行を教唆・指示した背後組織はなく、家族が関係していた特定の宗教団体の存在が取りざたされている。
20世紀の終わりごろ、日本ではオウム真理教という、宗教に名を借りた単なる暴力集団・殺人集団が様々な事件を引き起こした。あの時マスメディアは、社会の中で正常に機能している宗教と、単なる殺人集団との区別を説明しきれなかった。
少なくない人々の間にも「宗教」=「カルト」=「近づくな、かかわるな」といったような、単純で退行的な理解が広まった。 今回はマスメディアも、そして一般の我々も、あの時よりも成長した目で物事を見つめ、思考していく力を見せなければならない。四半世紀前の繰り返しをしていてはならない。
そしてもうひとつ。
今回のような事件は「動機が正しければ何をやってもいい」といった発想に繋がっていく可能性がある。社会の空気をよく監視して、「民主主義を守るための正しき戦争」といったロジックが加速していかないかどうか、じゅうぶんに気を付けておくべきである。
まさに昭和初期の日本は、「動機が正しければ何をやってもいい」といった空気がひろまり、その結果さまざまな事件(暴力によって主義主張を通そうとする事件)が頻発し、不穏な空気の中でやがて戦争への道を引き返せない状況に滑り落ちていったのではなかったか。
今後は、元首相の国葬についても議論が盛んになってきそうである。
賛成の立場にしろ、反対の立場にしろ、肝心なのは「その道を選択した場合に何が起きてくるのか」といったところに、しっかりとした問題意識を向けて思考し議論することである。
たとえば原発の廃止を選択した場合、代替エネルギーの問題もあるが、同時に日本国内から原子力技術者はだんだんといなくなってしまうだろう。ところが中国、韓国、台湾が今後も原子力発電を増強していく可能性は高い。だとすれば、日本は引き続き原子力災害のリスクを引き受けることになる。そんな状況で、国内に原子力技術を支える人材がいないということになれば、日本はこの分野に関する国際的な発言力さえ失ってしまうということになる。くわえて国内に残る原発の廃炉技術さえ外国に頼らざるを得ないことにもなる。
原発にしろ国葬にしろ、たんに賛成・反対を大声で叫んでいても意味はない。脳内物語に酔いしれて気炎を上げるのではなく、その選択の結果について深く思考し、継続的な議論をしなければならない。それが「静かで激しい民主主義の決意」なのだと思う。