元首相の国葬については、周知のとおりその是非が盛んに議論されている。そしてこれに絡んで、関係する様々な論点にも人々の関心が集まっている。今回は、複数の問題が絡みついている元首相の国葬について、あまり細分化せずに考えてみたい。
なお、今般のいわゆる「国葬」は、厳密には「閣議決定に基づく『国葬儀』」ということになるのだそうだが、本稿では読みやすさを考慮して国葬と記述する。
INDEX
- 空気はつくられる
- 「国」とは何か
- ビジネスとしての五輪、国葬
- さいごに
空気はつくられる
その実施日が迫っている元首相の国葬は、実際のところ予定通り挙行、強行されるであろうことは想像に難くない。
国葬の是非を論ずることも大変重要だと思うが、筆者は正直なところこの儀式がどのように行われ、その結果日本の内外にどのような空気が醸成され、広がっていくのかということの方に関心が向いている。
そして国葬の当日とその前後の期間、自分が所属したり関係したりするあらゆる人間集団が、いったいどのような対応を示すのか、あるいは示さないのかということに注目してみることを提案したい。
勤務先、学校、その他自分がメンバーとなっているあらゆる人間集団、自分を取り巻く周囲の人々の発言や振る舞い、さらには街の様子である。
たとえば大企業をはじめとした集団では、大なり小なり何らかの意思表示が行われるのではないだろうか。もちろん従業員に対して、何らかの行為を事実上強制・指示するようなことがあってはならないが、たとえば国旗を半旗とするなどの対応は実施されるであろう。
それは、国葬に際しての国民としての当然のアクションであるとも説明できるが、ありていに言えば、権力に睨(にら)まれたくないとか、経済活動をしている社会単位としても、周囲から孤立するような選択、つまり何もしないという選択は採用できないからとも言えるだろう。
地方自治体や地方議員たちはどうするのだろうか。
中央集権の日本であり、いったん中央に集まったカネをどれだけ地元に持って来られるかが至上命題である地方自治体の立場を考えれば、やはり大差ないだろう。
公務員は宣誓書を書いたうえで「就職」している以上、黙とうを命じられてもこれを拒否したり、疑問を呈したりすることは難しいかもしれない。とくに中央の官僚などは内閣人事局のコントロール下に置かれているという実情もある。
国葬当日やその前後に行われる民間のイベント、とくにエンターテインメント性が高いイベントについては、政府として規制したり自粛を求めたりすることはない、としている。
ただ実際問題として、東京都内の場合、来日する各国要人が空港、宿泊滞在先、会場である日本武道館等を往来するにあたり、厳重な交通規制や警備が行われることは(先の狙撃問題も踏まえて)間違いがない。
結果的には一定の「行動制限」をともなうことになるだろう。
もっと問題なのは、「この国葬の当日において、こんな享楽的な行事を実施するとは何事か」とか、「(国葬だというのに)何もしないっていうのは、何か思うところがあるワケ?」といった無言の圧力、視線が社会のあちらこちらで発生してしまう可能性だ。ひとことで言えば「非国民論」である。
ただこれについては、「何も言っていないのだから、圧力なんて言うのはおかしいだろう」という反論があるはずだ。
しかし、「明確な言葉や態度がなくとも他者の気持ちを察することができるのが成熟した大人」という意識が強い日本社会においては、「勝手に気を回す方がおかしいだろう」といった言い方には、未必の故意とでもいうような悪意を感じる。
思い通りに動かない人間や組織に対して、面と向かって理由説明をせず、静かに排除(村八分)してしまうのが日本社会の特徴であるとすれば、無言の圧力も明確な力を持つ。
「国」とは何か
この世界にたくさんある「国」というものは、決して統一された基準で存在しているわけではない。
世界の多くの国々に承認されていない国(というか地域)もあるし、民主主義の国もあれば共産主義の国もある。アメリカ合衆国のように多くの国(州)が集まって一つの国家を構成している例もある(アメリカの各州はそれぞれ個別に憲法、税制、教育制度を持つ。またグアムなどの「準州」では、たとえ基地が置かれていても米大統領を選ぶ権限は与えられていない)。
またロシアは、多分に独裁的ではあるものの民主主義国家だといえる。
ただその手続き(選挙など)が、特定の人物や勢力によって恣意的に捻じ曲げられていると疑われる状態にある。
つまりロシアのような国家の存在は、「民主主義といっても、いろんな捻じ曲がり方がありえる」ということを教えてくれてもいるのだ。
ロシアという文脈で付け加えておくならば、「ナゴルノ・カラバフ共和国」という、ちょっと奇妙な地域とその歴史ついて調べてみるのも面白い。
また「カリーニングラード」というロシアの飛び地については、(ウクライナ侵攻のニュースに関連して)最近知ったという人も多いだろう。北方領土問題を論ずるのであれば、カリーニングラードの歴史を知らないでいては説得力を持たないかもしれない。
ロシアではないが、アンドラ公国という小さな国も、その歴史や現在のありようは非常に興味深いものがある。
ちょっと横道にそれてしまったが、国際法上の国家であるかどうかの要件については、「(1933年の)モンテビデオ条約」というものがある。そこに示された考え方によれば、
- 永続的住民(a permanent population)
- 明確な領域(a defined territory)
- 政府(government)
- 他国と関係を取り結ぶ能力(capacity to enter into relations with the other states)
とある。
これが例えば国家、国の要件であるとするならば、「国の儀式」を執り行うにあたっては、国民の一定数以上の合意が必要ではないかという気がする。令和の日本は三権分立の近代国家であり、決して大日本帝国でもない。もちろん主権は国民にある。そして国葬に使われるお金は100%国民の税金で賄われる。
だとすれば、行政権力(内閣)が、国民の代表である国会の審議も経ずに、いまも着々と国の儀式の準備を進めている現状は、現在の国際的軍事情勢を視野に入れた、戦前の空気の再来にも感じてしまう。
ビジネスとしての五輪、国葬
国葬は、国家プロジェクトと言い換えてもいいだろう。そのポイントは二つある。国の行事として実行するということ。そしてそのコストを賄うのは100%税金であるということである。
国の行事として行うという点については、一定の思想への方向性を醸成しようとする「空気操作」の面がぬぐえないという意味で既に述べたとおりだ。
この節では、もうひとつのカネの問題を論じる。
国家的イベントが是であれ非であれ、そこでは国家プロジェクト級のカネが動くことになる。誰かの財布から出るカネではなく、税金を使う。これがどのように使われ、流れていくのか。
いくら忘れっぽい日本人であっても、さすがに2021年に行われた東京オリンピックの、招致段階からいま現在に至るまで噴出してきている、カネにまつわるあらゆる問題、人物、企業を忘れてはいないはずだ。
こういった大プロジェクトには、必ず大手の「仕切り会社」と多くの受注企業が絡んでくる。
もちろん大プロジェクトの実行には、経験や実行力のある組織による、政治的調整や現場の調整が必要なのであり、そのこと自体に疑問はないだろう。
問題は、国民の税金がどれだけ、どういった理由で、どこに流れていくのか、を一定程度明らかにする必要があるのではないかという点だ。
折しも東京五輪・パラリンピックをめぐる汚職事件で、贈賄罪で起訴された紳士服大手の前会長ら3人が保釈され、引き続き関連の企業にも検察の捜査が入っている今である。
税金の使われ方、流れ方にくわえ、国葬に絡んでくる人物や集団の周辺に、どのようなカネの流れや変化が起きてくるのかも注目しておきたいところだ。
さらにフタを開けてみたら(国葬が終わってみたら)、「かかったカネは、ほぼ倍額でした」なんてことになる可能性もあり得るのではないだろうか。そうしてまた、「見積もりが甘かったかも知れないが、当時としては見通せるものではなかった」とか、「とはいえ決してムダではなかった」といった奇妙な「説明」がなされるのではないだろうかと、筆者は危惧を抱いている。
さいごに
今回は国葬を中心に、そこに絡みついている問題(すべてではないが)も含めて考えてみた。
こういった複合的に絡みついた問題に接するとき、一般には、対象とする問題を切り分けて取り扱うことが良いとされている。しかしその手法は決して万能なわけではない。全体を俯瞰して考えてこそ見えてくるものがあるからだ。
こういった複合的な問題を個別に論ずるとき、意図的に論点や関心をそらしたり、問題意識をぼやかしたりすることも出来る面もあるのではないだろうか。
「別の問題をごっちゃにしないでいただきたい」などと言えば、なにやら一定の見識があるかのように振る舞うことが出来そうだが、逆に議論を混乱させるテクニックとしても応用できるのではないだろうか。
そもそも物事を分割して考えるというのは、西洋的英知である。
「分析」という言葉があるように、部分に分けてそれぞれを究明するという方法である。
それに比べて東洋的世界観は、「全体知」であるといえる。西洋医学と東洋医学のアプローチのちがいを考えるとわかりやすいだろうか。
どちらが正しいとか間違いだということはない。
おそらく、この西洋的分析思想、東洋的全体知思想とでもいうような物事のとらえ方を、往ったり来たりしながら思考することが、これからの日本にとって、もっともクレバーで、かつ必要な方法なのではないだろうかと筆者は考えている。