ほんとうは「あおり運転」ではなく、より範囲の広い「迷惑運転」とした方が正確かもしれない。筆者は、公道上で意図的に行われる迷惑運転や危険運転について、発達障害との相関があるのではないかと考えている。仮に少しでも関係があるのだとすれば、彼らに与えられるべきは懲罰だけでなく、社会的養護も必要かもしれない。
さらに少子高齢社会の手本となるべき日本においては、高度成長時代の発想のままと思われる免許行政の見直しも、もっと検討されるべきではないかと考えている。なお本稿は6月6日に判決が出されたやり直し裁判の事件等、個別の事案とは直接関係ない。
INDEX
- はじめに
- 心理的に未成熟な大人たち
- 幼い心理への運転免許証
- 高度成長期の残滓(ざんし)
はじめに
筆者はこの分野の専門家でもないし、研究者でもない。しかし18歳で自動車運転免許を取得して以来、約40年間にわたって大型車両や特殊車両の運転、道路維持管理の業務、さらには公共交通の分野も含めて道路交通に関する経験や体験、国内外の取材などに携わってきた。
そんななかで、ときおり目撃したり経験したりする意図的な迷惑運転に関しては、ずいぶん前から考えを深めていた。
本稿で論じようとしているのはあくまでも「意図的な迷惑運転・危険運転」である。
したがって初心運転者などに見られる運転技量未熟によるものや、人間なら誰にでも起こりうる、悪意なきウッカリのようなものは考慮しない。
さて、個人の障害と犯罪(的)行為とを関連づけて論じるには慎重な姿勢が必要である。それは、人それぞれの立場や、問題のとらえ方によって、あらゆる意味での誤解や偏見を招いてしまう可能性があるからだ。障害を持っているとされる人が、不当にその権利を制限されることがあってはならない。
またこの分野では、社会的で冷静な議論といったものよりも、より個人的で感情的なものが先走ってしまいがちであるという特徴もありそうだ。
しかし筆者は、社会的問題行動を反復・継続的に起こす、あるいは起こしてしまう人物に対しては、やはり社会的な対応がなされるべきであると考えている。
この社会的対応というものは多くの場合、「罰を与えて懲らしめる」という方法がほとんどのようだ。それは社会の運営方法として実施しやすく、また市民感情としても一定の納得感が得られるからだろう。
しかし認知機能をふくめた知的機能の障害が原因で「世の中が歪(ゆが)んで見えてしまっている」人々、すなわち発達障害のような課題を(自分でも認識しないまま)抱えて生きている人々に対しては、懲罰だけでは根本的な解決につながらないのではないかと考えている。
ところで、小学校入学前後ぐらいの子どもに対して、普通学校へ進むべきか、それとも特別支援学校(以下「支援学校」)へ進むべきかを精神科医が判断する指標のひとつとして知能指数がある。
そしてその判断基準が平成の時代に引き下げられたと聞く。
ありていに言うならば、以前は支援学校に進路を取っていた子どもたちが、ある時期から普通の学校に通うようになり、社会的養護を必要としない人として社会に参加してきているということになりそうだ。
もちろんこの政策にはそれなりの理由や背景、思想があるのだろうが、そういった人々の中にも運転免許を取得して、交通社会に登場してきている例があるのだとすれば、これは一定程度、検討されるべき事柄なのではないだろうか。
数年前の話だが、発達障害であると診断された中学生の息子を持つ女性を含め、数人で語り合う場に居合わせたことがある。その息子は家でも公共の場でも、状況に関わらず突然叫び出したり、暴れだしたりする(いわゆる「突然キレる」)のだそうである。
筆者がその語り合いの終盤、「でもまぁ人間だれしも、ある意味、発達障害のような気もするけどなァ」と発言したところ彼女は、我が意を得たりとばかりに「そう!、そうなのよ!」と目を輝かせたという出来事がある。
多種多様な人間が存在し、かかわりあうことによって社会は構成されているし、それによって学びがあり、社会も活性化する。そしてまた、懲罰や養護といったものは手段なのであって目的ではないはずだ。この考えに異論はないと思う。
ただ本稿では、「社会の安定や秩序を積極的に乱したり、破壊しようとしたりする行為には、社会的な検討や対応がなされるべきである」という考え方を前提として、論を進めていきたい。
心理的に未成熟な大人たち
はじめに、迷惑運転をやってしまう者たちの心理について考えてみたいが、そのまえに迷惑運転をいくつか具体的にイメージしてみる。
- 後から車間距離を詰めて「早くいけ」「この車線からどけ」とばかりに危険なまでに接近したり、車体を左右に振ったり、ライトやクラクションなどであおる
- 走行している車両の直前に急に割り込んだり、さらに直後に急ブレーキをかけたりして驚愕(きょうがく)させようとする(二輪車にも多い自殺的行為であり、本来の被害者が加害者にされてしまう面も)。
- その他、ターゲットとなる車両や人に対する脅迫的な行為や妨害、嫌がらせ(自転車で急に、あるいはフラフラと走行中の自動車の前に出てくるなども含む)
こういったところだろうか。 こんな行為を行う人物の思考・行動パターンには、いくつかの特徴がみられる。筆者の整理では、
- 自分の周囲で起きる、知らない誰かによる行為を、自分に向けられた悪意であるとしか理解できない
- 事実であれ誤解であれ、他者からの「悪意」に対しては必ず報復行動や示威行動を示す
- 「待つ」とか「様子を見る」ということが出来ない。自分には見えない事情があるかもしれない、という思考が出来ない。全体観をもって目的地までの行程をイメージすることが苦手で、目前の交通状況しか考えることが出来ない
具体的な例を挙げて説明する。
たとえば交差点の手前で、進む方向ごとに車線が分かれている場合がある。よく知っている人なら、あらかじめ手前から長々とつながっている車列の最後尾につけたり、逆に空(す)いている車線を通ってその先へ進んだ方がいいとわかっていたりして、スムーズに流れていく。
しかし、そんなローカル事情を知らないドライバーもいるし、ウッカリ空いている車線を進んでしまい、慌てて並んでいる車列に入れてもらおうとする状況も起こりうる。
こんなとき、彼らは意図的・計画的に行われている悪意、としか理解できない。入れさせてもらおうとしているクルマが遠隔地やレンタカーのナンバーであっても、考えをめぐらすことが出来ない。逆によそ者として対抗意識を燃え上がらせたりする。たった1台の乗用車であっても、絶対に譲ろうとはせず、接触事故に至るようなことも辞さない。
救急車のような緊急車両が通過した後の交差点などでは、奇妙な位置に車が止まっていたり、そこから車が動き出したりするが、後からやってきた彼らはそんな前後関係に思考が行き届かず、やはり憎悪の態度を示すこともある。
そして、「待つ」ということについては、特に苦手な人物が多い。
片側1車線の道路で右折しようとする車の後ろになった時や、狭い道路でタクシーがお客の乗降(人の乗降)で一時的に止まった時など、直ちにイライラが燃え盛ってしまう。
高齢者や身障者、妊婦や荷物を多く持った人、深夜に帰宅する女性などが乗り降りするタクシーであったとしても、また住宅街の狭い道であっても、状況判断が出来ずに激しくクラクションを鳴らしたり、怒鳴ったりする。
さらに「報復行動」については、とうてい注意喚起などと言うレベルではなく、「わからせてやる」といった発想によって、多分に憎悪と攻撃性を帯びる。
ちなみにこの「報復行動」は、原因となった出来事に関係する車両や人に向かう場合もあるが、常々抱いている社会一般に対する怒りや苛立ちを、手近なターゲットを代替として行ってしまう場合もある。
こういった思考や行動のパターンは脳のクセと言ってもいいかもしれない。簡単に言えば「誤解」であり「思い込みの激しさ」であり、つまるところ心理的な未熟さ、未発達と言えるのではないだろうか。
そうして「自分はバカにされた」「損をさせられた」といった感情と即座に呼応しあい、「それなら仕返しをしてやる」「わからせてやる」という思考に短絡する。
ほんとうは自分に関係のない事であるにもかかわらず、それが自分に向けられた悪意ではないかと考えてしまう心理は、普通の人にも多少あるものかもしれない。
ただ普通の大人なら、明確にそうであるとわかるまでは、少し様子をみたり、別の角度で状況を考えてみたりすることによって、他者との関係を考えるものである(そもそも自動車の運転ぐらいで、そういったことに自分が振り回されること自体が無意味なことであり、対象と距離をとろうとするのが成熟した大人だと思うが)。
しかし彼らにはそれが出来ない。
?と感じる事態に遭遇した時、わずかな時間を置いて考えてみる(待ってみる、様子を見てみる)とか、状況を「引き」の観点で眺めてみるといった思考が出来ないのだ。
これはすなわち、正常な心理的発達や成長を遂げられないまま、あるいはそういった訓練・教育を受けることが出来なかったまま、運転免許を取得し、公道に出て来てしまっているといえるのではないだろうか。
たしかに「自分の前に割り込まれた」と感じた時、誰でも一瞬イラっとしたりする。しかしそこで「やれやれ、ったく...」と事態を受け流すことが到底できないのが彼らの特徴である。それは自分に向けられた、明白で意図的な悪意であると決めつけ、反射的に仕返しの行動に移ってしまうのだ。
まさに、幼い子供がその思い込みの激しさのまま反射的行動に出てしまうパターンそのものなのである。
さらに困った例では、自分が始めた「報復行動」を止められなくなってしまう心理もあるのではないだろうか。
「コイツにわからせてやる」という心理だけで思考が満たされてしまい、それがすべてを超えた優先事項となり、自分の身の危険すら省みることが出来ないほど危険な迷惑行為をやってしまうのである(走行中の車両の前に急に割り込んでブレーキをかけるなど)。ここまでくると、他者を巻き込んだ自己破滅的行為であり、異常心理、異常行動といっても過言ではないだろう。
幼い心理への運転免許証
こう考えてくると、我々は気づくことがある。SNSにおけるバッシング行為と、その心理プロセスがそっくりなのである。
対象となる人物やものごとについて、あるいはその背景にある(自分には見えていないかも知れない)事情について知ろうとする努力もせず、自分(たち)だけの激しい思い込みによって脳内物語を膨らませ、短絡的・反射的に行動に出る。
そしてその行動は自分(たち)の中で「正しき行為」に祭り上げられ、使命感すらともなうようになる。その結果ターゲットに限度のない攻撃を加え、完膚なきまでに追い詰めるレベルにまで、自分で自分を(あるいは同調する者同士で)炎上させてしまうのである。
話がSNSにそれたけれども、いずれも「心理的に幼い大人」が問題の根底に横たわっているであろうことは、容易にお分かりいただけるのではないだろうか。
しかし、「心理的に幼い大人」を論じることは大変難しいし、そもそも対象範囲が大きく広がってしまうので、ここではこの程度にしておく。
けれども、そういった心理的に幼い大人たちが、合法的に運転免許を取得し、今後も道路を走るであろうという現実に、筆者は疑問を禁じ得ないのである。
日本の免許制度では、学科試験、技能試験、適性試験の3種類の試験をクリアしなければ運転免許証は与えられない(一部、小型特殊やいわゆる原付のように技能試験の無いものもある)。
このうち心理的発達に関わりがありそうなものと言えば、「適性試験」だろうか。しかし残念ながらこの適性とは、視覚、聴覚、身体能力といった、あくまでも身体的な面でのチェックでしかない。一部に「運転適性検査」というものもあるようだけれど、これはアンケートのようなものに回答すると、それにもとづくアドバイスが提示されるだけなのであって、その結果によって免許証の交付が左右されるというものではない。
つまり日本の免許行政では、いわば物理的に運転が出来そうであれば、どのような心理的未発達者であっても免許が交付され、1トン前後の乗用車を自由に運転できるのである。
「免許」とはそもそも、本来なら禁止されている行為に対して、「特別に」「条件付きで」交付されるものだ。自動車運転免許であれば、必要な技量、知識、そして安全意識をもって、安全で円滑な交通社会に参加できると認められるからこそ交付が許されるのが原則であるはずだ。
もちろん、交通違反や事故を起こした場合にはそれなりのペナルティ(行政処分、刑事処分)が設けられているけれども、最初の免許交付の段階で(そして更新時も)心理的要件はまったくと言ってよいほど考慮されていないのが現状なのである。
意図的に迷惑運転を行うような人物に対して、簡単なアンケート形式の結果をもとにペーパーで助言をしたところで、彼らが意味を理解し改善に努めようとするだろうか。
高度成長期の残滓(ざんし)
「大の虫を生かすために、小の虫を殺す」という言葉がある。
戦後の高度経済成長期、何よりもまず経済復興とその発展こそがすべてに優先されていた。それはともすると思想や哲学、宗教といったようなことは役に立たないもの、いわば悪であり、産業振興・経済発展につながることこそが善なのだといった極端な考え方があった。経済的・物質的豊かさが実現されてこそ、はじめて精神的幸福も訪れるのだと主張する考え方が大きな支持を得ていた。
しかしその反面、工場や鉱山からは平気で汚染水が川や海に流されたり、煤煙が処理されることもなく吐き出されたりして、令和のいまも苦しむ人々がいる病気を発生させてしまった。さまざまな食品添加物なども同様であった。
道路では排気ガスが撒き散らされ、「交通戦争」という言葉まで出るほど交通事故死傷者数が大きくなっていた。階段しかない歩道橋が次々と作られ、子どもや高齢者、身障者や妊婦などを無視して自動車優先の道路行政が進められた。そこには「健康で、元気な、男性」の視点しか存在しなかった。
そういった社会の雰囲気の中で自動車運転免許は、なるべく多くの人に交付し、産業に資する人材を多く作り出そうとしていたことは間違いないだろう。
しかし戦後復興も、高度経済成長も、とうの昔に終わっている。すでに日本の人口は2010年の1億2千807万人をピークに減少の一途をたどっており、しかもその中身は高齢者比率が高まっていくばかりである。
この現実から必死に目をそらそうとしている昨今の日本であるけれど、人口減少とその構造変化というものは、どんな職業についていようと、また働いていない人であろうと、日本で暮らす以上その影響を受けずに済むわけがない。
女性活躍だとか、子どもを産み育てやすい環境をと、さまざまな努力がなされてはいるが、残念ながら大きな潮流の中ではほとんど実効性は持たないだろう。
都市部に住んでいると実感はないが、すでに地方では「座して死を待つ」ような地域も決してめずらしくない。
大勢の外国人を招いて日本国籍を与えるといったような極端な移民政策でも起きない限り、2035年頃には3人に1人が65歳以上となり、2050年には総人口が1億人を割り込んで、かつ2.5人に1人が65歳以上という集団になっていくというのが、ほぼ確実にやってくる日本の現実であり、未来なのである。
1億人を割るということは、1966年頃の日本の人口に戻るということでもある。
もちろん1966年の1億人に戻るからといって、社会の何もかもがタイムスリップしたように当時の状態へ戻るわけではない。
しかし65歳以上比率のちがいは大きく効いてくるだろう。1966年当時の65歳以上人口の割合は約6%、16.6人に1人が65歳以上という社会であった。
エコノミストの経済見通しは「当たるも八卦」だが、人口推計だけは、先に述べたようなよほど特殊な変更要素でもない限り、かなり高精度に推計することができるのである。
そんなトレンドの日本社会において、高齢運転者の問題や、子どもが犠牲になる事故が大きな問題となっている。それなら同じように、迷惑運転をしてしまう心理的未発達者(言うまでもないことだが飲酒・酒気帯び運転行為も含む)への運転免許交付、更新についても、考え直す必要があるのではないだろうか。
高度成長時代の発想のまま、多くの人に安易に運転免許を交付したり、更新させたりすることは、慎重に考え直されるべきではないだろうか。
戦後復興の一定期間、工業や科学の分野を強化して国家の屋台骨をしっかり築こうとしたことそれ自体は、一概に誤りだとは言えない。大きな恩恵があったことは紛れもない事実である。
しかしそのウラで犠牲となった人、蔑(ないがし)ろにされた事を忘れ、歴史を忘れるようであれば、少子高齢化が加速する今後の日本に未来はないという気がする。