ロシアによるウクライナ侵攻が続いている。罪なき一般市民に心を寄せることは大変重要だが、数々の被害・災害の延長線上でのみこの悲劇をとらえているだけでは、問題の本質は理解できない。本稿では、昭和以降の日本人にとって世界認識の死角となっている東欧・ロシア世界を、宗教という切り口で考えてみたい。プーチンはここ2年間ほど、中世以降のロシア史に没頭していたという話も聞く。むろん、ロシア史や正教といった分野に理解のある方からすれば、まったく素人の戯言に過ぎないことは承知の上だ。しかしだからこそ、ごくふつうの日本人の感覚をもってこの無謀な挑戦をしてみたい。
INDEX
- もう一つのキリスト教
- 東西キリスト教のちがい
- 正教とは民族宗教だった
- モスクワは第三のローマ
- ウクライナ「込み」でロシア正教
- プーチンは引きこもる?
もう一つのキリスト教
まずは世界地図を見ていただきたい。Google Mapを別ウィンドウで開いておいてもいいし、紙の地図帳を開いていただいてもいい。
黒海の上(北側)のあたりにウクライナがあり、その上にベラルーシがある。そしてそれらの東側に、両国を足したよりも少し広い面積で「モスクワ周辺地域」がある。これら全域をざっくり「東スラヴ」と呼ぶ。
今回の話の舞台はこの東スラヴ地域がメインとなる。この地域では21世紀の現在に至るまで千年以上、政治と宗教が絡み合いながら血で血を洗うような分裂や統合、栄枯盛衰が繰り広げられてきたといっていい。そしてそれは今般のウクライナ侵攻にもつながっていると考えられるのである。
ところでこの地域の歴史を考える時、おそらく日本人にとって壁になりやすい点が二つある。それは宗教と国家が一体であるということと、「ロシア」とか「ルーシ」という言葉の意味である
現代日本人にはイメージしにくいことだが、この地域も古くから「国や地域」「宗教」「人々の日々の生活」は一体不可分であった。そこでここから先は、政治の話は宗教の話でもあるし、宗教の話は政治の話でもあるということを念頭に置いて理解していただきたい。
また「ロシア」というと、普通の日本人はソビエト連邦崩壊後の、現在はプーチン率いる国を連想するけれども、歴史において語られるロシアという言葉は、必ずしもその領土や国民とは一致しない。そもそもロシアという言葉自体、16世紀ごろから使われ出したらしいこと以外、はっきりとはわからないのだという。
しかし、たとえばベラルーシのルーシだとか、むかし存在したキエフ・ルーシなどという国名にも出てくるルーシは、ロシアという言葉と関係しているであろうことが、なんとなく感じていただけるだろうか。
ルーシは非常に多くの意味や用法がある言葉らしいが、やや乱暴に言ってしまえば「東スラヴあたり」の民族のことであり、国や地域のことであり、その統治権力のことでもあったようだ。
なので、歴史を考えるうえでの「ロシア」や「ルーシ」は、「あのへんの、もの、こと」といったボンヤリした理解でOKと割り切って、前へ進む。
そもそもプーチン率いる現在のロシアは、その昔にキリスト教を採用した、ある国に源流を持っていると言っても過言ではない。
ただそれは10世紀末のことであり、国といっても主権国家などという発想すらないような時代だ。いわば「ある一定の地域を治めていた勢力」と考えていいだろう。 その名はキエフ大公国(たいこうこく)である。儀礼的な状況では「キエフ・ルーシ」とも呼ぶようだ。先に触れた東スラヴの領域が、ほぼキエフ大公国の勢力範囲であった。
王様よりも格下の貴族、これを「公」と表現するが、そんな公のなかでもより勢力のある者が「大公」である。すなわちキエフ大公国(キエフ・ルーシ)は、貴族の中でも特別スゴい貴族が治めていた国、ということになる。
公国は、上位の公国や大公国の支配を受けたり、下位に1つ以上の公国を支配していたりする場合も少なくない。これは世襲・相続の際に領土分割をしたためらしい。名古屋ふうに言えばまさに「たわけ(田分け)」である。
キエフ大公国も複数の公国のゆるいつながりで構成されていたが、時代とともに複雑な力関係の中で分裂・派生したり、統合されたりしていく。
そしてこの国の大公の名はウラジーミル1世。東スラヴ地域で曲がりなりにも統一国家を成立させた人物である。「ウラジーミル」はある地域の名称でもあり、名前の中にプーチン大統領と共通部分があるのは単なる偶然でもないという。
ウラジーミル1世は5大宗教を比較検討し、その結果「ウチらの国(をまとめる)にはギリシャ正教がピッタリだ」と判断し、国教として「採用」する。西暦988年のことだ。
さて、ウラジーミル1世が国教としたギリシャ正教は、我々日本人がイメージするキリスト教、すなわちカトリックやプロテスタントなどの「西方教会」の流れとは異なる。まずここが重要なポイントである。同じキリスト教でも東と西でそのありようがかなり違っているということだ。
キリスト教はそもそも、4世紀末にローマ帝国の国教に採用されたことで世界規模の宗教になったといえる(313年に合法化、392年に国教化)。
しかしその後すぐローマ帝国が東西に分裂(395年)したことにからんで、キリスト教も東と西に分裂する。国家権力と宗教がほとんど一体だった時代だから、当然といえば当然である。そしてこのあと長い間、国としてもキリスト教としても東西の断絶が続く。
じつは東方教会(ギリシャ正教)の影響が広まっていった地域というのは、ローマ法も、ルネッサンスも、宗教改革も知らないままに、千数百年の時を歩んできた。それほど断絶の溝は深かったのである(ただしビザンティン帝国では国家レベルの基本理念としてはローマ法をベースに置いていた)。
そのため明治以降、西欧の文明すなわち西方キリスト教文明の影響を受けてきた現代日本人にとっては、東方世界がブラインドになっている。「東西冷戦」という言葉があるけれど、これはつまり東西キリスト教の思想対立の歴史が、現代にまで通底して影を落としていると考えれば、なにやら腑に落ちる気もする。
東西キリスト教のちがい
では具体的にキリスト教の東西の違いを比べてみよう。
我々日本人がイメージするキリスト教はほとんどの場合「西のキリスト教」である。ローマを拠点とし、そこに教会システムの頂点であるローマ教皇が君臨、西ヨーロッパ諸国は民族を超えてこの教皇の権威の下(もと)に存在するという考え方がベースにある。規律と秩序の観念が強く、それはたとえば精緻に体系化された神学という存在を考えてみてもわかる。
そして何世紀もの間、教会の言葉はラテン語のみであった。聖書も説教も、神の教えはラテン語でのみ語られた。そのため一般民衆が教会へ出向いても、いったい何を言っているのかサッパリわからないというのが実態だった。聖堂に響き渡るありがたい神のお言葉や神父様の説教は、「なんだかわかんないけどスゴそう」なものでしかなかった。
だが中世以前、布教はすなわち政治勢力の拡大でもある。そこで本来はタブーであるはずの絵画や彫刻などで神とその世界を表現し、勢力の拡大を図ることになる(キリスト教は偶像崇拝を禁じるユダヤ教に由来している)。
その結果民衆は、ラテン語はわからなくとも、神の存在を絵画や彫刻から感じ取ることができた。またこのことは結果として、美術的に大きな価値と意味を持つことにもなった。
ずっと時代が下って16世紀に入ると、ドイツのマルティン・ルターが、絶対的な権威を持つ教会に疑問を持ち行動し始める。その活動の中ではドイツ語版の聖書を発行したりもする。民衆はそこではじめて神の言葉、存在、世界観を「言葉」として知るのである。
ちなみにルターが発端となっているキリスト教プロテスタントでは、偶像崇拝については否定的である。日本においてもカトリック教会に比べてプロテスタント教会は簡素なものである。これはルターが主張した「人間が作り出した教会というシステムに過度に依存すべきでない。信仰は心の問題であり一人ひとりの人間が神と直接かかわることが大切だ」という考え方を反映しているといえる。
ルターは、教会や聖職者たちをそれまでの絶対的な存在から引きずり下ろし、人間世界において相対化させたのである。
いっぽう東(東ローマ帝国=ビザンティン帝国=ビザンツ帝国を含む東方世界)のキリスト教は、教皇のように一人の人物を絶対的な地上の権威者に設定しない。聖職者の最高位である「総主教(各地に複数存在する)」でさえ独断で何でもできるわけではなく、合議制が基本である。
「ゆるいキリスト教」というと言い過ぎかもしれないが、それはつまり、各地域、各民族のローカル性を尊重したキリスト教であり、実態としては民族教会であった。民族それぞれの教会組織の自治や独立性を大事にしたのである。
さらに東方キリスト教は、民族ごとの言葉による礼拝も認めた。東方の民衆は神の福音を自分たちにもわかる言葉で(たとえばスラヴ語で)聴くことが出来た。
西のキリスト教のように、論理的でカッチリした体系化をして、全地域にわたって統一的に推し進めるようなことはしなかった(「カトリック」とは普遍的という意味でもある)。東方教会は理論や理屈といったことよりも、神秘的な儀式を重視するような、いわば「わかりやすい感動」に重きを置いていた。
正教とは民族宗教だった
東方キリスト教世界では、地域ごとに独自のスタイルとアイデンティティをもつ正教、すなわち「〇〇正教」が発展していくことになる。それはすなわち、キリスト教をベースにした民族宗教が各地で発展していくことであり、「民族」と「国や地域」と「宗教」というものが密接に関連した、あるいは同一化した人間集団が多数出来ていくということでもある。
その結果、ギリシャ正教から、各地域や民族のスタイルにアレンジされた〇〇正教が生まれていく。
いっぽう西ヨーロッパでは、たとえば物事を論理的に考えようとする気風が発展し、ルネッサンスなどの文化も花開いていく。18~19世紀の産業革命も無縁ではないだろう。だとすればローマ法、ルネッサンス、宗教改革を知らなかった東方では、そもそも産業革命のようなものは起き得なかったといえるのかもしれない。
東方では、論理だとか、体系、構造などといったものよりも、神秘性、情感、雰囲気といったことを重視した。絵画や音楽などもそういったものを基調にして発展していくことになる。
仮に「外向き」「内向き」という言葉で区別するならば、東方世界は様々な形態の内向きなキリスト教がいくつも息づいている、と表現できるかもしれない。
このことについては、ロシア音楽、ロシア文学などに関心のある方なら、リクツではなく肌感覚で納得していただけるだろうか。
あえて平たく言ってしまうなら、西は「これこれこうだから、こうなのだ」で相手を論理的に説得しようとするが、東は「オレはそう感じる、いま強烈にそう感じている。だからそうなのだ。正しいのだ!(…でもホントはちょっとさびしい。そして寒い。ビミョーに寂寥感。あぁ腹が減る。でも天国を信じて祈る)」とでもいう感じだろうか。
文章にするとわけがわからない気がするけれども、言葉ではない情感が大切なのだから、別の言い方をすれば「言葉や論理を超えたところにあるもの」、「自分たちにしかわからない世界」に意識が向いているのが東方世界なのかもしれない(日本の文学なども含めて一般に、より寒い地域で花開く文化というものは、ある意味個人の内面でアツくなった成果、といえる面があると筆者は考えている…)。
さて、東のキリスト教がいくら「ゆるい」といっても、もちろん一定の組織体制や聖職者の序列は存在する。
先に述べた通り東方教会では各地域に自治や独立性を認めていた。そのためA国ではその地域性を反映した「A正教」となり、B国には「B正教」があるといった具合に、国や地域ごとにまとまりを持っている。しかし「A正教」も「B正教」も、あるいはそのほかも、いずれも同じ正教(英語でオーソドックス)であることになんら変わりはない。しかし儀式のやり方等に関しては地域ごとに異なっている。
さらに各国・各地域の正教には、いわば「格」のようなものがあった。「A国の正教のトップはとても偉い人だけど、B国の正教のトップはもっとエラい。だから(同じ正教でも)B正教のほうが格が上だぜ」というような感じである。
正教の聖職者でも高位に属する者は「主教」とよばれる。そしてその中にも「府主教」だとか「大主教」といった序列があり、最高位が「総主教」である。
先ほどの例で言えば、「A正教のトップは府主教だが、B正教のトップは総主教だからB正教の方が格が上だ」という認識である。そして政治と宗教が一体であるから、つまり国としてもB国の方が上位であるということになるのだ。
もちろん逆に、「ここんとこ勢力を強め台頭してきたA国」の正教トップを、府主教から総主教に格上げする、ということも起きる。
自国の正教のトップがどのレベルの主教であるのか、これが政治や外交の戦略に多大な影響をもたらすのである。
モスクワは第三のローマ
先ほど出てきたキエフ大公国(キエフ・ルーシ)も、ある期間平和と繁栄を謳歌していたが、14世紀に入るとタタール(モンゴル人とその支配下のトルコ系遊牧騎馬民族)の支配を受けるようになり弱体化していく。ロシア正教の拠点は、滅んでしまったキエフからモスクワ東方のウラジーミル大公国に移される。
さらにそのあと、宗教と政治の両面で台頭してきたのが、元はと言えばウラジーミル大公国の支配下の、弱小国に過ぎなかったモスクワである。
もともと北方辺境地域にあり、キエフ大公国の大公権に属する一地方という程度の存在でしかなかったが、モスクワ大公国(モスクワ・ルーシ/モスクワ・ロシア)と呼ばれるほど勢力を大きく伸ばし、モスクワがロシア(ルーシ)の中心となっていく。
1453年、栄華を誇ったビザンツ帝国(東ローマ帝国)の首都コンスタンティノープルが、ついにオスマン帝国によって制圧され、城壁にオスマン・トルコの三日月旗が翻る。
1462年にモスクワ大公となったイヴァン3世は「オレ様こそがビザンツ皇帝の(滅ぼされたビザンツ帝国の)正統な後継者だ」と宣言。自らをツァーリ(ビザンツ帝国の副帝)と称した。
ここでロシアは、正教キリスト教圏内唯一の、すなわち西方キリスト教世界に対峙する指導的独立国家となるのである。ビザンツ帝国の鷲の紋章はモスクワ大公国の国章として引き継がれた。
その後1589年、それまでモスクワ府主教だったイオフという人物(ロシア人)が「モスクワおよび全ルーシの総主教」に昇叙される。ロシア人にとっては自分たちの国の正教トップが最高位に昇格したということであり、加えてそれが外国人(ギリシャ人)ではなく自国人であるということも大きな喜びであった。
それだけではない。総主教を戴いたということは宗教的な意味にとどまらず、政治的にもモスクワ大公国が完全自治独立権を獲得したともいえる。
そしてこの「総主教座」が確立されたとき、ウクライナやベラルーシの教会は、その監督下に置かれたのである。
そもそも総主教をトップに戴くのは古来より、アレクサンドリア(エジプト)、アンティオキア(シリア)、エルサレム、そしてコンスタンティノポリスであった。そしてこの4つ以外に総主教が存在することなどありえないと考えられていた。
ところがそのコンスタンティノポリス総主教が、モスクワ大公国のイオフを総主教として認めたのである。
しかもコンスタンティノポリス総主教といえば、上記4人の総主教の中でも最高権威である「世界総主教」の格を有している。その人物がお墨付きを与えたというのだからタイヘンである(4人の総主教が承認したのは少しあとの1593年)。
これはつまり、モスクワ大公国こそが正教の正当な継承者であり、またモスクワという場所が、ローマ、コンスタンティノポリス没落後の「第三のローマ」であると認めたことと同じなのである。
ロシア人の歓喜、自信、アイデンティティ、プライドといったものは、この出来事にさかのぼって考えることが出来そうだ。「我々こそが神に祝福された、この地上で唯一の正当な代表者である」と。
さらにこの時代、モスクワ大公国はフョードル皇帝の平穏な治世である。
一代前の皇帝すなわちフョードルの父は、残虐な暴君として知られる専制君主イヴァン4世(雷帝)だった。自分に反抗するモスクワ府主教を逮捕し絞殺することさえあった。
しかし息子のフョードルは、流血、残酷な拷問、抑圧などは断じて許さなかった。父のイヴァン雷帝まで約500年、リューリク家(リューリク朝)は代々強い政治力を発揮してきたけれど、それは同時に血で血を洗う残虐な歴史でもあった。そこにようやく訪れた平穏な治世に自国人の総主教を戴いたことは、聖職者や民衆にとってどれほど自信に満ちた感動的な事であったろうか。
ただその後、モスクワ大公国の帝位を長く世襲してきたリューリク家は途絶え、(1613年から)ロマノフ家の人間が帝位に就くようになる。ロマノフ家と言えば、あの暴君イヴァン4世(雷帝)のカミさんの実家である。
ウクライナ「込み」でロシア正教
1721年、モスクワ大公ピョートル1世は、モスクワ大公国をロシア帝国と改める。そして自分はこれまでのようなツァーリではなく、インペラートル(西欧的な皇帝)であると宣言する。
これは自分が、これまでのようにロシア正教会と並び立つような権力者ではなく、ロシア正教会を隷属させる絶対君主のポジションにあることを宣言したものだ。あのイヴァン雷帝でさえ一定の配慮をしていたロシア正教会に対しピョートルは、「政治に口を出すな」と宣言したわけである。さらに総主教という制度をやめさせ、ロシア正教を監視・監督する制度をつくった。
このロシア帝国の領土は現在のロシアよりも広大で、現在のウクライナやベラルーシ、モルドバなどもロシア帝国の領土であった。
つまりロシア正教の影響力、管轄権も、引き続き現在のウクライナにおよんでいたわけである。
その後ロシア帝国が1917年に倒され、1922年にソビエト連邦が成立するが、あいかわらずロシア正教会は政治権力の監視下に置かれつづけ、暗黒の時代を過ごすことになる。ソビエト連邦という無神論国家による徹底的な宗教弾圧である。
聖職者が殺害されることもめずらしくなく、それどころか銃殺したあと手足を切り落としたり、頭皮をはがしたり、さらには頭を切り刻んで放置するなどといった、想像を絶する惨たらしい手順が実行されたのである。
やがてソビエト連邦の体制があやしくなり、崩壊へと進んでいく時期、宗教組織であるロシア正教会も分裂の危機に見舞われる。とくに「ウクライナ方面」である。
2014年3月、ウラジーミル・プーチンはクリミア半島を併合する。クリミア半島はその昔、キエフ大公ウラジーミル1世が洗礼を受けたところであり、ロシアにとっては聖地でもあるのだ。
クリミア併合によって反ロシア感情が高まったウクライナでは、ロシア正教会から分離独立しようとする主教たちが出てきた。特にウクライナ西部では、いわば「カトリックの息がかかった教会」さえも勢力を持ち始める。
そしてついに2018年末、ウクライナにある複数の正教会が合同して「ウクライナ正教会(OCU:Orthodox Church of Ukraine)」を確立、翌月すぐにコンスタンティノープル世界総主教から正式に自治独立権を承認される。
当然ながらロシア正教会はこれに激しく反発するが、それはウクライナ正教会との対立だけでなく、母たるコンスタンティノープル世界総主教教会との対立という構図まで生んでしまう。
政治の世界と背中合わせで、宗教の分野でも権力や権威のねじれ、衝突が起きていたのである。ロシア正教会も焦りや危機感を感じていであろうことは想像に難くないが、このあたりの事情はほとんどニュース・報道番組では取り上げられないようだ。
現在のロシア正教会のトップ、すなわちモスクワ総主教はキリル1世である。
プーチンと同郷であり、プーチンの引き上げで総主教に選出されたという話もあるこの総主教は、今回のウクライナ侵攻を「祝福」すなわち支持している。
またキリル1世は、2020年にロシア軍のために新築された聖堂に、プーチン大統領やスターリンのモザイク画を掲げようとした人物でもある。さすがにこれはプーチンがやめさせたようだ。
いずれにせよ今現在もロシアは、政治と宗教が一体となっていることは明らかだ。
プーチンは引きこもる?
ロシアによるウクライナ侵攻。
この悲劇そのものも含め、間接的に影響が出ているあらゆる問題がこの先どう収束していくのか、専門家でも見当がつかないという。
筆者の根拠なき妄想に過ぎないが、なにか明確なひとつの出来事によって収まるというよりも、なんだかズルズルと時間をかけて、「結果として収まっていく」というような流れを予想している。
ロシアの歴史を見てくると、大事件の主役の終焉は、隠遁・逃亡・追放・投獄・惨殺と、とにかく二度と正常な状態で社会とかかわることが出来ない状況に追い込まれている。
プーチンは最終的に、森の奥の修道院かどこかに逃亡、隠遁(引きこもり)してしまうのか。それともロシアらしい「始末」のつけ方になるのか。
罪なき人々が一日も早く元の生活にもどり、間接的に傷んでいる世界経済も回復してほしい。
そのためにも我々は、ただ「かわいそう」「経済がタイヘンだ」と言うだけでなく、すべての人間に内在するものに対して真剣な意識を向け思考しなければならない。