この状況で、あたりまえのように「地代・家賃」を請求する者がいる。あたりまえのようにカード引き落とし請求が通知される。
これは倫理的に正しいだろうか。
経済とは
お金が次から次へと流れていくのが経済だ。
カネが回るスピードが遅くなり、その量が減れば経済規模縮小だ。
かといってあまりに速いスピードで、そして大量のカネが回るとバブルのようになる。
実際にこの世にない価値、たとえばまだ掘り出されてもいない原油に価格を付け、上げたり下げたりさせる。そして、その動きそのものにまた価値を定義してさらに抽象度の高い価値をつくり、マネーゲームを遊んで「無駄にカネを持つ」ことが加速する。
あるいはその価値が単純に測れないモノやサービスに、物語を付けくわえて経済を煽る。
肌感覚で実感できない経済コトバ(経済ニュースでよく耳にする言葉)は、なんだかんだ言っても突き詰めれば「見えない価値の物語」を弄(もてあそ)んでいるだけではないのか。
そして回りまわった結果として、日本や世界のどこかで赤ん坊や子どもを傷つけ、若者を心身両面で疲弊させ、働き盛りの心を折れさせ、高齢者は「まだ生きている自分」に罪悪感を持つという、悲しい現代社会を作っている気がする。
経済成長は幸福成長か
いままで何度か「金持ち」といわれる人の家や事業所にお邪魔したことがある。私の狭い人間関係、拙(つたな)い人生の中ではあるが、彼らには一様に共通点があると感じる。
それは、「余計なモノをたくさん所有し、余計なコトをたくさんやっている」ということだ。「ムダに金を得て、ムダに支出する人」という意味である。
権力者や金持ちは自分の力を示すために、食べもしない料理を並べさせ、必要もないモノを欲しがるといった話を聞いたことがある。どれだけ多くのムダを垂れ流せるかで自分のステイタスを表そうと考えているようだ。
なんと淋しく愚かな生き様だろう。
ある者はムダにカネを得てこれを遊び道具とし、ある者は何の落ち度もないのに苦しみ、死んでいく。我々は結局、こんな社会をめざして走ってきたのだろうか。
本来の資本主義とはこんなことではないはずだ。誰かがムダに所有し、誰かが意味もなく窮乏する社会。これは誤った、勘違い資本主義だ。
倫理なき資本主義経済
いま、社会のあらゆるところでカネが入ってこない。回したくても回せない。だから回らない。ならば社会全体でスピードダウンするしかない。
大きな経済サイクル全体で、スピードダウンしていくしかない。
しかし、一斉にスピードを緩めようとしている社会の中で、ある部分だけがこれまで通りのスピードを保つなら、そこにカネが滞留していくことになる。
やがてはそのカネも他へ回っていくのかもしれないが、それには時間がかかる。その間に、経済サイクルの別の部分で(その関連性すら取り上げてもらえないままに)犠牲になっていく人が多発する。
それは倫理なき資本主義だ。
それでも平気で請求する人々
さて、いまこの社会状況で、平気で通常状態の請求をする者がいる。
たしかにその請求には、契約という根拠はあるだろう。しかしこの社会状況で平常時とまったく同じように請求する者は、許されるべきだろうか。
請求する側にも事情はあるかもしれない。従業員などへの給与や借金の返済などがあるかもしれない。
だが、たとえそうであっても、この社会的非常時にあって平常時の請求をする姿勢は「倫理なき請求」ではないだろうか。
特定企業を称揚する気はないが、たとえばある賃貸住宅をマネジメントする企業では、家賃の支払いに関して一定期間にわたる猶予策を、素早く打ち出してきている。
決して簡単なことではないだろうが、今後日本経済が建て直されたとき、倫理的に評価される企業のひとつとして人々に意識され、コロナ後の新しい日本社会において、その存在価値を認められるのではないだろうか。
ここまで書き終えて、ふと、ブレーズ・パスカルの著書「パンセ」の一文がひびく。
「人間は、屋根葺き職人だろうとなんだろうと、生まれつき、あらゆる職業に向いている。向いていないのは部屋にじっとしていることだけだ」(断章138)/岩波文庫(青)614-2~4
https://www.iwanami.co.jp/book/b246685.html