【最終更新日】2021年6月19日
本稿に関連するNHKラジオ番組の一部コーナーが再放送となったため、「聴き逃し」サービスの部分を新しい情報に更新しました。
夫の河川での事故死をきっかけに、大学院に入って学び、研究し、子どもの事故防止活動をしている女性がいる。私がこのブログでも投稿した、一般人にも普及してほしい危険予知の考え方にも一脈通じるところがあると思うので、今回はこの女性とその活動をご紹介させていただきたい。
なお2021年6月26日(土)午前5:00まで、彼女に対するNHKのインタビュー番組を聴くことが出来るので是非お勧めしたい(詳細は本稿末尾)。
発端となった事故
2012年4月21日(土)の午後、近所の河川敷にジョギングに出ていった夫が、予定の時刻になっても帰ってこない。きちんとした性格の夫にしてはおかしいと不安がつのる中、時間が過ぎていく。そして消防に背格好を問い合わせたところ、よく似た男性が病院に運ばれていることがわかる。しかしその電話口で、「すでに亡くなられています」と言われる。
何が何だかわからない。
その後、自宅に警察官が来て、ついさっき出かけて行った夫の「遺体確認」が、写真によって行われる。夫だ。当時2歳と5歳だった子どもを連れて警察へ駆けつける。すでに到着しているマスコミを避けて中に入り、そして、変わり果てた夫の遺体と対面することになる。
事故は、河川で起きた。
大阪府茨木市の住宅街を流れる安威川(あいがわ)は、子どもたちが川遊びをする風景も見かけられる、憩いの場所でもあるような川だったらしい。その川を渡るような格好で点々と「護床(ごしょう)ブロック」と呼ばれるコンクリートブロックが設置されている。人工的に設置された飛び石のようなもので、ついなんとなく、そこを渡っていきたくなるようなものであったらしい。
じつはこの護床ブロックのそばには水深2メートル以上にもなる深みが出来ており、ここで溺れている子どもたちを見つけた夫が助けに入ったようだ。
事故当時、中学生1人、小学生3人が遊んでいたようだが、溺れていた小学生は何とか助かったものの、中学2年生の子どもと、助けに入った夫が亡くなってしまった。
いつもどおりの土曜の午後、今後一生を共にするはずだった夫が突然、帰らぬ人となった。自分と幼い子ども二人。その心情は察するに余りある。
自分の半分が無くなってしまったような気がして、自分が生きていることの意味もわからなくなってしまった。
なぜ事故は起きたのか
「いったい、なぜこんなことが起きてしまったのか」 単なる被害者意識ではなく、冷静で強い問題意識から、事故の原因や背景を探り始める。そこで女性は、社会の構造的な問題に直面し、愕然とすることになる。
事故現場は以前から危険が指摘されていたらしい。さらに危険な深みがあることも行政はわかっていた。近所の人たちにも「いつか事故が起きるのではないか」と思われていた場所だったのだ。
実際、今回の事故の前にも似た様な事故が起きており、行政に通報した人物もいたのだそうだ。にもかかわらず、なんら対策は取られていなかった。
しかも後にわかることなのだが、そういった市民の通報すら、行政側に記録が残されていなかった。最初の事故の教訓が生かされることなく、今回の死亡事故が再び起きていたのだ。
女性は夫の父とともに茨木市の土木事務所に出向き、危険な場所であるにもかかわらず、看板ひとつ、ロープ1本張られていないのは何故なのか、と問うた。
担当者は、「河川というものは、自己責任の中での自由使用が原則なので、そこで誰が何をしようとしていても、行政が何か言うことはできない。」というものだった。
この話を聞いておそらく誰もが、「なにかがおかしいのではないか」と感じるはずだ。
「河川使用の原則」も、おそらく一定の意味があって存在しているのだろう。しかし、そこに危険が潜んでいるとわかっていながら、何らの対策もしないまま、人が被害に遭ってしまうことは、「仕方がない」ことなのか。
「ご主人を亡くされたことは大変残念。そのお気持ちはわかるが、我々としてはどうすることもできない...」。そんな言葉で片づけられる社会であっていいはずはない。
土木事務所に同行した、ふだんなら冷静な義父は「あなたたちの子どもが同じ目に遭ったとしても、河川使用の原則だから仕方ないですね、と片づけるのか!」と、気色ばんだそうだ。
「いつか事故が起きると思ってたんだよね」と言われる場所は、おそらく全国に数えきれないほどあるだろう。事故が起きるたびに被害者やその家族は「今回は残念でした」で片づけられ、周囲の傍観者たちは「お気の毒です」といって言葉も行動も控え、下を向いてしまう。
正常な感覚にもとづく冷静で強い問題意識
「そんなことじゃない!」 女性はその後も、土木事務所や教育委員会などを回ったそうだが、どこも行政の「原則」「リクツ」を述べるばかりで、対策どころか問題意識すら感じられなかった。「また被害者が文句を言いにやってきたゼ」とでもいうように、厄介者のようにあしらわれていることは、以前から感じていた。
そんななか、当時の茨木市長と話す機会を得て、現状を訴えることになる。
市長は即断し、その川に何か所もある深みにダイバーを潜らせ、調査し、水深が2メートル以上の深いところには、イラスト入りで注意喚起する看板が設置される。
やればできるのだ。というか、あたりまえの社会の姿である。
女性はその後、正常な感覚にもとづく冷静かつ強い問題意識で、なぜこういった事故が起きるのか、予防することはできないのか、を考え始めることになる。
そして、大阪大学・大学院を志し、特に子どもたちにまつわる事故について研究を深め、講演や出版など一般の人々への啓蒙活動を始めることになるのである。
リスク最小化は誰かがやって「くれない」
防ぐことが出来る事故は防ぐ。
このごく当たり前の考え方が、日本社会においては軽んじられ、それゆえ実際の行動にもほとんど結びついていない。
大阪大学大学院人間科学研究科で、安全行動学研究分野に携わる岡真裕美さんは、子どもの安全を専門に活動している。
子どもの行動についてはよく、「親がしっかりしていなかった」といったような、保護者の落ち度に短絡させる論調、空気もある。しかしこれは決定的に間違いであるし、その発想ではいつまでたっても事故は減らせない。
子どもを四六時中監視することなどできはしないし、親は教育のプロフェッショナルでもない。そもそも人間の子どもは、飼育するものではなく教育するものだ。
子どもは親や家庭だけでなく、「おともだち」や「知らないおじさん」などの様々な人々、人間集団、メディアなどの影響を受けながら成長していく。それが社会人へと成長していく人間の、正常な発達である。
つまり、子どもは社会全体で保護・教育されるべき存在なのである。
いつのころからか、他人の子どもを叱ることがタブー視されるような空気が日本に蔓延してきた。「ウチの子どもに口出しするな」といったような、自ら孤立を選ぶ親たちも、増えていたかもしれない。
私はよく「戦後75年」といった切り取り方で日本人や日本社会を考えるのだが、こういったことは、日本人の日常が奇妙な欧米化、おかしなアメリカ化によって変化してきたことと無関係であるとは思えない。
日本人は、上滑りした「ものまね社会」を作るのではなく、自分たちは何を目指してこの社会を作ってきたのか、そして今後作っていくのかを、もっと考え抜かねばならない。
【関連リンク】
※下記のNHK「らじる☆らじる」は、パソコンなら下記リンクをクリックして表示されるページ内の「関西発ラジオ深夜便▽明日へのことば・アンコール 6月19日(土)午前4:05放送」をクリックしてすぐに聴くことが出来る。
スマートフォンやタブレットの場合は、専用アプリを入れて「聴き逃し」から聴くほうが便利だ(Android / iOS)。なお民放ラジオが主体のサービス「radiko」でもNHKラジオは聴けるが、聴き逃しサービスは行われていない。
助けに入った人が亡くなる・・・
切ないです。
危険を察知する能力は、動物としてあるはずだと
思いますが。
安全な生活に慣れてしまったのでしょうか。
また、悲しいことを少しでも無くすためには、悲しいことと正面から向き合う勇気が必要な気がしています。