KY(ケー・ワイ)は空気が読めない、ではない。学校の部活動、いわゆる「家キャン」や花火遊びでのヤケドや火災、そのほか交通事故をはじめとする様々な事故を見聞きするにつけ、ごく一般の人々にこそ本当のKY、つまり危険予知の考え方を知ってほしいと思うのである。
一例としての家キャン事故
「家キャン」とは自宅でキャンプをするという意味で、外出自粛しながら自宅でテントを張ったり、バーベキューをやったりすることである。コロナ禍のいま、ちょっとしたブームになっているらしい。その家キャンでいま、思わぬ事故・火災が起きているという。
たとえばこんなことも、危険予知(KY)の考え方を知っていれば、防げた可能性が高い。
家キャンの事故では、バーベキューなど加熱調理に使っていたコンロの火が、衣服などに燃え移って火傷を負ったり、周囲のものに燃え移ったりするなどして、ボヤや火災につながっている。
そして相変わらず、事故が起きた後に、さらにいえば多発した後になって、「このような危険性がある」という実証ビデオがテレビニュースに流れたりする。
家キャンでの事故の本当の原因は、①本来とは異なる道具の使い方をしていること、②火や燃料となるものについて科学的知識を持っていなかった、あるいは意識をしていなかった、ということではないだろうか。
家キャンをするということは多くの場合、裸火を扱い、燃料を扱うということである。ここですでに、自分たちは一定のリスクに近づいているという意識を持つべきだった。
さらには、屋外の広い場所、風通しの良い場所で正しく使われることを想定したキャンプ道具を、狭くていろんなものが置かれているベランダ、室内などで使用するという、特殊な、または誤った使い方をしようとしている、ということに意識をしておくべきであった。
これらはすべて、事前の「危険予知活動」で防げた可能性がある。
KY=危険予知活動とは
危険予知活動は、建築・土木の工事現場や、航空・陸運・海運などの交通業界などで行われるもので、前もって「隠れた危険・起こりうる事故」について、そこに携わる全員が考え、具体的な被害イメージを共有し、そうならないために何を行うのか、を事前に確認・約束する活動である。
見かけたことがあるかもしれないが、建築土木の工事現場で作業に着手する前に、現場の最高責任者から一作業員までが一堂に会していることがある。当日のスケジュールの確認などもあるが、ここで大切なことは「KY活動」である。今日の作業で起こりうる事故を共有し、事前の対策を共有するのである。
たとえば、「午後から風が強くなると予想される」とすれば、物が倒れたり、飛ばされたりして、道具の破壊や建物の損傷、人に関係してけが人が発生する、あるいは人が転落する、などといったリスクを、明確な短い言葉にして黒板などに書く。
そして、そうならないために何を実行するのか、を同じように明確な言葉で書き、全員でこれを唱和するとともに、「安全ヨシ!」などと叫び、一定のポーズをとって確認しあうのである。
また、担当者が「上にあるものは...」と発声すると、全員が「落ちる!」といったり、「立っているものは...」「倒れる!」といったりする場合もある。
叫ぶことにも意味がある。大声が出せなければ、正確な意思疎通が出来なかったり、とっさの危険を知らせたりできず、事故につながるかもしれないからである。
ラジオ体操を行うのも、たとえば危険なことからとっさに身をかわしたりできるようにする安全対策でもある。
さらに付け加えるとすれば、最近発生した事故について報告があったり、残念ながら死亡に至った作業員などへの黙とうが行われたりもする。
これらはすべて、安全に作業を完了させるための地道な積み重ねなのである。
ひるがえって一般の生活レベルでは、こういった危険作業場のようなリスクはないかもしれない。しかし危険予知活動という「ものの考え方」は十分に有効だと思っている。
裸火とそれをよく燃え上がらせるための燃料や着火剤、器具や道具の「過熱」、小さな子どもが動き回ること、めったに着ない浴衣の袂(たもと)や裾(すそ)、最近では手指消毒のために使うアルコール剤。あらゆる部分に事故につながる可能性が宿っていたのである。
何が起きうるのかを具体的にイメージせよ
もちろん問題は家キャンだけではない。ベランダというシーンで想起されることに、幼児や児童の転落がある。これは「足場」となるものが置かれていたことが多いという。くわえて子どもというものは、好奇心の赴くまま、「課題解決」のためにあらゆる努力や挑戦をする。転落した子どもは、危険予知ができないまま未知なる世界へ挑戦しているつもりだったのかもしれない。
そのほか交通事故なども典型的な例が沢山ある。
最近感じるのは、危険予知がまったくできていない自転車や歩行者の多さである。自ら危険な状況へと身を投じておきながら、事故になりそうになると他人の不注意を非難するという、まことに幼稚な考え方である。
特に自転車は、健康ブームや自転車ブームに乗って、市街地などで勝手気ままに乗り回す人が多くなっている。タイミングさえあえば、重大な事故になっている例(いわゆる「ヒヤリハット」)が少なくない。
ごく普通の交差点でクルマが右左折する場合、横断歩道を横切ることになる。このときどうしても運転者の視界が制限されるため、最徐行や目視など十分な注意が必要である。最近では横断歩道を横切る手前で一時停止する貨物車や路線バスなども見かけるようになってきた。
しかし、「絶妙な死角」から、猛スピードで自転車が横断歩道に飛び込んできた場合、接触が避けきれない場合がある。「歩行者信号が青なのだから無条件に突っ込んでいける」というあまりにも単純な考え方は、大変危険であり迷惑ですらある。
交通事故のようなものは、どちらが優先だとか、どちらに非があるといったリクツだけで無くなったりはしない。人間がそれぞれの意思と限界ある能力で道路に出ている以上、リクツを超えて、何事もなくその場を通り過ぎていくために何ができるのかを考えることが大切なのである。
「脳内危険予知活動」の習慣化を
危険予知活動のことを話すと、「縁起でもない」といった反応を示す人もいる。具体的な被害イメージを想起させるからだ。しかしそれは思考停止でしかない。
大切なのは、起こりうる悲しい出来事を防ぐために何ができるのか、誰が何をするべきなのかを考え、「出来ることを実行する」ということなのである。その目的のための手段として、被害を具体的にイメージするのである。
なんらの危険予知もせず、いざ事故が起きるとむやみに他人や社会を非難したり、自己弁護したりするのは、社会に生きる者としては悲しく幼い生き方ではないだろうか。
今年も梅雨からこの夏の時期、川などでの水難事故、浸水やがけ崩れなど、人間生活と自然の境界でも事故が起きている。被害のニュースを目にするたびに、親や集団のリーダーが、あと少し危険予知のセンスを持っていたならば、と残念な気持ちになる。もちろん新型コロナウイルスの感染防止も危険予知活動の考え方を応用できるだろう。
「毎日がハッピー」なのは誰しもの理想だろうが、それに近づくためにも、支えるためにも、危険予知のセンスがどうしても必要なのだ。
子どもには「お友達をいじめたりしちゃいけません」と言っておきながら、大人たちは「バッシング」をしている社会。ならばここはひとつ、「正しいことは何なのか」を真剣に考えようとしている思春期前後の人たちを中心に、若い世代に危険予知の習慣をつけてほしいと願っている。