「存在しないことになっている人」「社会とのつながりを実感できない人」が、(彼らの意図に関わらず)結果として今回の感染拡大に拍車をかけてしまっているような気がしている。だとすれば、「アフター・コロナ」の社会は、社会的包摂(ほうせつ)ということについて、より真剣に考えておく必要がある。
「見捨てられ感」
いまパチンコ店へ集まる客だとか、海などへ繰り出す人々に批判的な視線が向けられている。ではなぜこういった人々は、いわば社会性の低い動きをするのだろうか。
それは自分と社会との関係について、一定以上の実感が持てていないからではないだろうか。
あえて言葉にすれば「見捨てられ感」である。
人それぞれ「見捨てられ感」は違うだろうし、程度の差もあるだろうが、その感覚が強い人ほど、社会からの自粛メッセージのようなものは白々しく感じ、我慢して協調することなどバカバカしく思うはずだ。
そもそもここに来るまで、社会に期待などしていなかったし、期待することも出来なかった。だから社会から指図はされたくない。この社会からも現状からも抜け出せずに、自分はただ生きているだけ。
そういった気分が、コロナ前の日本に広がってはいなかっただろうか。
そこへ「さぁ、みんなで力を合わせて乗り越えましょう!」などと言われても、自分が協力することの意味や価値など感じられないのである。
ただし、「見捨てられた人」と「見捨てた人」が明確に分かれて存在しているわけではない。その間には広いグレーゾーンがあり、さらにそのグレーゾーンはグラデーションをもって広がっている。つまり、こういった意識は程度の差こそあれ、今の日本社会の多くの人が感じているのではないか。
存在しないことになっている人
戦後の日本社会においても、存在しないことになっている人がいる。社会の制度や慣習において、ほかの人と比べて同等に扱われていない人のことだ。
それはおもに、(妊婦を含む)女性、子ども、高齢者、病者や障がい者、様々なマイノリティである。
では逆にそうではない人とはだれなのか。
それは、ふつうに健康で元気な現役男性である。つまり(軍事組織的な空気の漂う)会社組織にとって都合のいい人間であり、日本の経済成長に直接的に寄与できる人間のことである。
たとえば高度成長期にやたらと作られた歩道橋などは、さまざまな理由はあるにせよ、健康で元気な男性しか視野に入っていない発想だし、信号機のない横断歩道を渡ろうとする歩行者のほうが非常識とでもいう社会は、産業に従事し経済成長に貢献できる人間だけが「価値ある社会人」だという考え方になりがちだ。
そうであれば、それ以外の人間は、社会にとっての「コスト」「負担」と見るような空気を作ってしまう。
平成から令和の時代にわたって、確かに女性や障がい者の社会参画は進んできているし、様々なマイノリティに対する人々の視線も変わってきている。
しかしそれは、表面的、一面的な制度改革であり、多くの人が社会の一員であることを実感する社会にはまだまだ遠い気がする。
とくに「失われた20年」以降の負の加速は大きい。
社会的包摂をふまえた経済成長を
「こんな人生、もうどうでもいい」
そう感じる人が多い社会は、本人にとっても他の人にとっても不幸で悲しい社会だ。
経済成長に直接貢献できない人へのまなざしを持たない社会や、(教育支援も含めて)努力やチャレンジする機会すら与えられない社会、失敗するとまず這い上がれない社会は、結局のところ自分で自分の首を絞めている人間集団と言えそうだ。
しかし、だからといって経済成長が停滞していいわけではないし、単純に昔のライフスタイルに戻れば解決することでもない。
アフター・コロナを考えるとき、これまでとは異なる社会スタイルでの経済成長を目指すべきではないだろうか。それは、いま一般的に語られる言葉をもってすれば「社会的包摂(ソーシャル・インクルージョン)」なのだと思う。
そしてこれが言葉遊びになったり、仕事をしているふりに使われたりしないよう、多くの人がこの言葉の意味を考えられるような環境を作っていかねばならない。