令和4年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が始まった。1月9日の第1回放送を見て様々な感想を持たれたと思うが、まるで現代ドラマのような脚本、演出に驚いた、あるいは違和感さえ覚えたという人もいるかもしれない。
しかし筆者はこのような脚本、演出はむしろ大切だと思うし、教育的でさえあると思うのだ。
INDEX
- 北条時政に「首ちょんぱ」と言わせる
- 劣化する日本人の本質は歴史観の無さ
- 「ドリフ」っぽくてもいいじゃない
- 教育エンタメとしてのNHK大河
北条時政に「首ちょんぱ」と言わせる
北条時政(演:坂東彌十郎)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝のカミさんである政子の父親である。頼朝にとっては義父というわけだ。
平安時代の末とはいえ平氏がまだ絶大な権力を維持していた時代、流人(るにん:犯罪者)となって伊豆へ追いやられて来たのが源頼朝(演:大泉洋)だった。その若き流人の頼朝を監視する役割を担っていたのが北条時政だ。
ところが、事もあろうにその流人の男と自分の娘・政子が結ばれてしまう(大泉洋と小池栄子が結ばれる)。
しかし人の世は面白いもので、やがて北条時政はこの頼朝をバックアップするようになっていくのである。
そんな北条時政は第1回の放送で「首ちょんぱ」というセリフをコミカルな演技とともに口にする。ほかにも現代ドラマを見ているような感覚になるところが随所にちりばめられ、三谷幸喜カラーが炸裂している。
こんな現代劇のような大河ドラマに違和感を持つ人も中にはいるだろう。
特に当時の人物や時代背景に、より明確なイメージを持っている人からすれば、なんだかその信ずる物語を傷つけられるような感覚があるかもしれない
しかし、ある程度分かっている人だけが楽しめる番組であってはいけないと筆者は考えている。若い世代を引き付けるキャスティング、演出、脚本であることは、やや大げさかもしれないがこれからの日本のためにもなると思うからだ。
それは最近、日本人の歴史観の貧困さが気になっているからでもある。
劣化する日本人の本質は歴史観の無さ
もう、いちいち挙げるような気もなくなるほどマヌケな事件や問題が日本には起きている。あらためて言われない限り、忘れてしまっていることも多い。そしてそういう問題の根底には、当人や関係者の歴史観の無さと、底の浅い思考パターンがあるような気がしてならない。
実際、「過ぎたことを勉強して何になる?それよりも新しいテクノロジーや、法律・経済・現代社会について学び、今とこれからの社会を生き抜いていくべきではないのか?」という質問に答えられる大人はどれほどいるだろうか。
たしかに歴史を学んだからと言って、明日からの実生活に役立つことはほとんどないかもしれない。しかしすぐに役立たないからムダだというのは明らかに誤りである。
歴史上の出来事や人物について知り、次の段階として自分なりに考える作業を経ることによって、現在そして未来にわたってよりクレバーな(賢い)選択をする能力が備わってくるのである。
また科学やテクノロジーといったものは確かに進化しているけれど、肝心の人間そのものは昔から本質的には大して進化・成熟していないということを実感する意味でも、歴史を知ることは大変重要である。
「ドリフ」っぽくてもいいじゃない
筆者(56歳)は個人的に、烏帽子(えぼし)をかぶった大泉洋が真剣な表情で演技すればするほど、逆にプッと吹き出してしまいそうになる。なんだか昭和のお笑い番組「ドリフの大爆笑」を連想してしまうからだ。自分勝手に次のズッコケ・シーンを脳内で回してしまう。
また小池栄子、新垣結衣、宮澤エマたちが平安・鎌倉期の着物を着てスタジオ・セットにいると、志村けんのバカ殿シリーズの再来とも思えてきてしまう。
しかし、それでもいいではないか。
なにも誰かをバカにしているわけではないし、歴史を弄んでいるわけでもない。大切な歴史の流れや人々の心の動きは、わかりやすく生き生きとして描かれている。
大切なのはこのドラマがきっかけとなって、「人間、昔からなにも変わってねぇなァ」、「ウチの会社と同じパターンやで!」、「歴史っておもしろい」、「あの国会議員、大臣、(ほか有名人)って歴史をなんも知らねぇ」などという感じで、若い世代が歴史に関心を持つことだと思う。
と同時にそういった影響をもたらすことは、歴史エンタメのクリエイターたちに共通する使命であるとすら思っている。
歴史に詳しい人、好きな人は放っておいても勝手に勉強するし、その知識を通じて物事を考え、現在と未来の社会を考える。
問題は、「歴史」というものを単なる学校の教科としかとらえることが出来なかった多くの日本人たちに、その面白さと大切さを伝え、歴史の知識を踏まえて現在の自分と社会について考えぬく習慣をつけてもらうことである。
教育エンタメとしてのNHK大河
歴史を学ぶことは本来、年号や言葉を暗記することではない。
それは「受験対策としての歴史科目の勉強」であり、日本人としてあるいは人類として必要な歴史の学びではない。
令和4年春から高校生の歴史の学び方が変わる。簡単に言えば「日本と世界の近現代史を必修とする」ということらしい(「歴史総合」と呼ぶのだそうだ)。
筆者はこの話を聞いて、今まではそうではなかったということに愕然とした。そして同時に、昨今の日本社会の様子と照らし合わせて考えると、残念ながら腑に落ちたような気にもなった。
しかしこれも所詮、国の機関である文科省が設定した教育プログラムであり、実質的にはやはり受験対策でしかない。
そうではなく自ら関心を持って歴史に学び、得た知識をベースにしながら、いま自分が生きている状況にあわせて「考え抜く」ための歴史であってほしいと思っている。
歴史観を持ちあわせない政治家、捻じ曲がった歴史観を見抜けない国民が増えることは悲劇でしかない。それはつまり、その国が(武力攻撃されなくとも)自滅していく道でもある。
令和のいま台湾海峡やその周辺のリスクが、今後の日本や日本人にどのような影響を与えるか、といったところに焦点が当たっている。その問題を考えるためにも、歴史観は重要である。
仮に日本という国が、浅はかな歴史観しか持ち合わせないリーダーたちや有権者の集団で、奇妙な物語や説明に思考を停止させ、近視眼的な脊椎反射の判断しか出来ないのであれば未来は暗い。
筆者が小学生のとき「おもしろくてためになる」というキャッチフレーズの本があったと記憶している。今ふうに言えば「池上彰の・・・」みたいなTV番組になるのかもしれない。
鎌倉時代は実際のところ、よくわかっていないことが多い。なにしろ1,000年近く昔の話だ。しかしだからこそ、脚本の自由さもあるといえる。時代考証も重要だが、現代人の感覚で1,000年前の人々の世界観や気持ちの動きをどう表現・理解するかは簡単な問題ではない。
若い世代の歴史観を育むエンターテインメントを見守っていきたい。