彼女は話すことに躊躇いながらも、この機会にと意を決したのか、俯いて囁くような声で
「健さん。亡くられた奥様との結婚生活はさぞかし幸せだったでしょうね。ピアノ教師をなさっていたとか聞いておりましたが・・。職場での恋愛で結ばれたのですか?」
「それだけに、今は心が空虚になり寂しい日々を送られているんでないかしら。奥様のご冥福を祈りますともに、ご同情申し上げますわ」
と呟いたが、彼はフフッと笑って
「ご心配。有難う」
「恋愛だなんてとんでもないよ。親戚の勧める見合いですわ」
と言葉少なに答えたあと、近況について
「幸い貴女と同郷で貴女の先輩である秋子さんが近所に住んでおり、時折、娘さんを連れて訪ねて来ては、家事をしてくれて凄く助かっていますわ」
「一人娘で小学生の理恵子さんは、亡妻の律子が元気なころはピアノの練習に来ていたこともあり、律子を母親の妹とでも思っているらしいわ」
と答えたのみで多くを語らなかった。
春のお彼岸も近い頃。
北国の空は変わりやすく、枝折峠も背後に奥羽山脈に連なる飯豊連峰を控えているだけに、お昼を過ぎた頃から、青空に鰯雲に似た小さい白い雲が、帯を引いた様にまだら模様に増えて、流れも心なしか速くなったように見えた。
丘陵の草を音もなく靡かせる風は穏やかで、肌に心地よく触れた。
狭い山合いに流れる小川のせせらぎには、山吹や水仙の黄色い花が咲きはじめ、頂上の平地には若い青草の中に名も知らぬ花が所々に宝石を散りばめたように可愛いらしく咲いていた。
コブシの花は盛りだが山ツツジは小さいながら赤く色をつけて蕾が小枝一杯に芽吹き、周囲の山川草木はいっせいに山里の春を謳歌していた。
健太郎も節子さんも、田舎育ちだけに都会の人混みは苦手で、この様な自然の風景が何よりも心を癒してくれ好んでいた。
節子さんが、木陰を求めて場所を移動することを希望したので、彼女が先になり草花を手折り摘みながら振りかざして歩るき、欅の枝先に芽吹き始めた大木の下にある椅子代わりの台石のところに来ると、どちらが声をかけることもなく並んで腰を降ろした。
広々とした開放感を与えてくる西側から望む海岸とは反対に、東側には山頂に薄く雲をたなびかせる飯豊山を眺望しながら、青空のもと峰に残雪を頂き、山々の中腹は青黒い樹木の森で彩られ、麓の丘陵は薄緑が陽光に映えている光景を見ていると、その景観はまさしく若人の間で流行言葉となっていた”青い山脈”そのもので、彼が青年時代に抱いた希望に満ちていた時を想起させてくれ懐かしく思った。
彼女は景色を見え終えると立ち上がり、樹齢100年位はあるのだろうか欅の大木に、うしろ手に寄りかかり、草花を顔に近ずけたり、小さく振ったりしながら、少しためらう様に思案していたが、気持ちの整理がついたのか、健太郎の方を見るでもなく
「ね~ 健さん。この場所に来ると学生時代のことを想い出し、こんなことお聞きするなんて、少し大人げないかも知れませんが・・」
「私、さっきから考えていたんですけれど、いま、お話をしなければ、もう、健さんと二人きりで、この様なことを語り合う機会も訪れないと考え、お話する気になったので、どうしても聞いて欲しいの。いいかしら・・」
と言い出したので、健太郎は何事かと一寸気を使ったが、彼女は遠くに目をやりながら
「高校生最後の夏。課外授業でこの崖のところで、今日とは反対に、私が健さんに手を引かれて、この崖にあがったこと。覚えていらっしゃる」
「おそらく、こんな些細なことは記憶にないでしょうね。でも、わたしにとっては強く印象に残っているので・・」
「そして、その時、私が初めて手編みした、小豆色の毛糸のネクタイをプレゼントしたことも・・」
と、彼が予期もしない遠い昔の教師時代のことを懐かしそうに語り出した。
健太郎は紫煙をくゆらせながら、続いて何事を話し出すのかと黙って聞いていたが、それにしても、細かいことをよく記憶しているものだなぁ。と、感心して話に聞き入りながら、当時、独身で駆け出しの田舎教師であった、わが身の、その当時の姿を重ねて想いだしていた。
彼女の一言は当時の彼にしては日常の授業のなかでの一齣で、あまりにも遠い過ぎ去ったことは聞かれても、当時のことはおぼろげながら断片的にしか脳裏に浮かんでこなく、即座に返事することに記憶が追いつかず答えに窮した。
その中でも、彼女から尋ねられたネクタイのことについては全く記憶になく、話題をそらすため直接の質問とはかけ離れた、当時の生活体験を振り返り
「う~ん、そのころ。休日に家族と稲刈をしたあとの田圃のあぜ道で、お昼に握り飯を和気合いあいと話しながら食べたこと、その晩あなたのお父さんの晩酌の相手をしてお酒をご馳走になったことがあったな~」
「そして、農業問題で議論したことがあり、農業には疎いので、随分と勉強になったよ」
「それに、何よりも家族同様に親切にされたことが一番嬉しく、今でも強く記憶にのこっているわ」
と、思いつくままに答えた。
彼女は自分に対する印象の話が無かったことが不満で少し不機嫌そうに「フ~ン それだけ・・」と、つまらなそうに答えたので、彼は当時を思いめぐらすうちに、今更その頃の心境を正直に話すことに羞恥心から躊躇い、本心を隠して
「そうだなぁ。あえて言へば、君は陽に焼けるのを嫌って田圃に出てこなく、家の中の掃除や洗濯等や、お昼の弁当作りに専念していたようだが、妹の紀子さんは積極的に田圃に出て、はさ木の上にいる父親に刈り取った稲束の端を軽く捻って投げて渡し、それがあまりにも見事で、傍らで見ている僕にもその要領を熱心に教えてくれ一緒にやったことかあったなぁ~。面白かったわ」
更に、課外授業でこの枝折峠にしばしば来たことや、吹奏楽の部活で楽しく練習したこと等、おぼろげながらも記憶に残っていることを思い出しながら、断片的に一言一言付け足して話した。
健太郎は、それとは別に言われてみて今でも鮮やかに記憶に残っていることがあった。
それは、彼女の手を何の感情も無く強く握って、崖の上に引き上げた時に感じた柔らかい手の感触であった。
握った直後、一瞬、身体に電流が流れたかの様な、心が揺さぶれた強烈な衝動を鮮明に覚えていた。
健太郎は、それを契機に、それ以後、家庭の中で何につけ彼女の言動に気をそそられ、心の中で彼女に淡い恋心を抱いたが、教師と生徒の関係から自分の胸にしまいこんで、そのまま何事も無かったように過ごしていたことは今でも心の隅に確かに残っていた。
彼が23歳にして、その時、生まれて初めて異性に対する心の高鳴りを覚えた印象は、今となっては流石に歳が邪魔して素直に話をする気になれなかった。
彼女は、少しがっかりした様な表情で、自分が意図する返事が返ってこないことが不満らしく
「フ~ン そのようなことがあったの。私、そのようなこと特別に強く印象に残っていないゎ~」
と、すげなく返事をしたあと、少し間をおいて、とっぴもなく
「健さんが、わたしが高校を卒業するまで家に下宿しておられたら、おそらく、私の運命も大きく変わっていたかも知れなゎ」
「わたし、今でもそんな現実的でないことを考えつつも、時々、夢みたいなことが心をかすめることがあるゎ」
「その頃、わたしが漠然と勝手に描いていた夢が実現していれば、少なくても、生涯独身なんてゆう、世間に対する強がりも、骨破微塵に砕けていたわネ!」
と、時空を超えた人生論を展開したあと、健太郎の顔を見つめ、黒い瞳を輝かせて、はっきりとした言葉で
「人との出会いの中で、特に女性にとっては・・」
と、自分の歩みし過去を回想するかのように話を続けた。
それは30歳ころ、職場で医師から望まれて、お見合いをしたことがあったが、なんとなく気が乗らず、また、身分が違いすぎると考えて、出会いも自然と消極的になり、結局、話が纏まらず、その後は、恋愛らしきこともなく、ひたすら、勉強と仕事に追われて、今にいたった身の上話などを、小声で訴える様に簡潔に話した。
彼女が話終えた時、健太郎の携帯電話が鳴り、話は中断してしまった。