環境問題に初めて警鐘を鳴らしたレイチェル・カーソンの名著『沈黙の春』…
かつて一般的に用いられていた環境負荷が大きいDDT等の農薬により、自然の生き物が死滅して、春なのに小鳥の囀りさえ無くなった。
そんな恐ろしい表題の本でした。
今年の春は逆ですよね。
桜や菜花が咲き誇り、鳥は囀り虫は飛び、賑やかな春ですが、人間の世界は…まさに沈黙の春です。
人間の文明が、どのような惨状になっていようが、自然は自然の摂理に則って、いつもの春と変わらない表情を見せてくれています。
嬉しいですが、心から春を迎え入れられない気持ちが、自然に対し申し訳ないです。
塩尻市街では既に1週間以上前から水仙が咲いていますが、少し標高が高い我が家の庭では、昨日ようやく咲き出しました。
福寿草も葉が茂って、花はコレが最後といった感じです。
このような春真っ只中…
ついに都市部に緊急事態宣言が出ましたね。
このような春真っ只中…
ついに都市部に緊急事態宣言が出ましたね。
実際のところ、緊急事態宣言が出ていようが出ていまいが、手洗いうがいはこまめにしていますし、人混みに行かないとか、特に屋内への不要不急な外出はしないということは当たり前なので、そんなに慌てるようなことは無いと思いますが。
むしろ地方の自分からすると、かなり時間をかけてネットでも情報収集出来たにも関わらず、よく状況を分かっていない人達が半ばパニックになって東京等の都市部から地方に疎開し、ウイルスを全国隈無くばら撒くといったことの方が迷惑です。
朝日新聞が東京脱出というワードを煽ったことも原因の一つでしょう。
このような事態にならないよう、緊急事態宣言を発令するまで時間をかけたのでしょうが、マスコミやネットニュースでは「早く宣言を出せ」とか「決断が遅い」などと煽ることに徹し、どのように生活が変わるか、どのように過ごせば良いのか等の報道が少なかったのは残念です。
そもそも、今回の武漢肺炎や自然災害の時は、国がどうするべき、自治体がこう言った…ではなく、状況や情報資料を見て自分なりに判断するということが、本来の自由主義国家での個人の在り方だと思いますし、この期に及んで政府の対応を批判ばかりしているのは、率直なところ憂さ晴らしとしか思えないです。
責任ある大人が、政府や行政に指示されなければ自発的に行動も出来ないのでしょうか?
感染拡大を食い止めるのは、もちろん行政にも一定の責任はありますが、個人の努力義務、責任も等しくあります。
まあ…長野県の感染者は、この時期に都市部や海外へ出かけたり、帰省してきて発症…といった人が多い。
政府や自治体がこれ程呼び掛けていても、このような行動をする個人が一定数いることは極めて残念ですし、こうした人達を処罰できるように法整備することが、政府の責任とも言えますが、なかなか難しいでしょうね。私権制限だと声高に反発する人達がいるので。
一方で、何でもかんでも自粛をしないといけない…というわけでなく、節度を持って行動すれば良いということが、今回の外出に罰則もなく、都市封鎖も無い緊急事態宣言だと思います。
進学校ほど自由で校則が緩く、底辺校ほど頭髪や服装、男女交際など、あらゆることが校則で雁字搦めにされますが、進学校の生徒のように、国民個人の見識、常識ある行動に政府は委ねたわけです。
何も政府が無責任なのではなく、本来自由主義を謳うのであれば、個人に責任が帰結するのは当たり前のことです。
幸いにも、某国のようにサッカーを無観客試合で開催したのに、スタジアムの周りにサポーターが押し寄せたり、コロナチャレンジと称して便座を舐め、感染して死亡する…という国民レベルでは無かったことは良かったです。
自粛が重要とはいえ、本土空襲の頃のように、毎日箸が立たないさつま芋のツル入りの雑炊を食べたり、大日本国防婦人会のご婦人方が「贅沢は敵だ!」と言って回るほどストレスフルな生活をする必要は無いですし、もちろん食品を買うために外出したら、憲兵隊や特高警察にしょっぴかれて拷問を受ける…といったことも無い。
当然経済も回さないといけないのですから、常識や節度をもって、程々に行動すれば良い…ただそれだけだと思います。
日本は、長い歴史によって培われてきた伝統や文化があります。
常識や節度というものは、こうした伝統、文化が無ければ存在し得ない規範であり、日本が誇るべきものです。
戦後教育で、それらはボロボロにされ、卑しく扱われて来ましたが、それでもDNAに染み付いた日本人としての不文法は存在しているはずです。
今、自分自身はどう生活するべきか?
責任ある一人の日本人として、ウイルスも社会も経済も、考えながら行動したいものですね。
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