大川を後にして、大阪城方面まで歩いて行こう。
京阪本線
大坂橋
大阪市の寝屋川と府道石切大阪線を跨ぎ、大阪城公園と毛馬桜ノ宮公園を結ぶ自転車・歩行者専用橋。
東横堀川の凌渫中に「大坂橋 天正13年」の銘が刻された擬宝珠(ぎぼし)が発見されたことにちなんでいる。
この「大坂橋」が当時どこに架かっていたのかは不明である。
大阪城の北西・京橋口の近くにある赤いレンガの建物は「大阪砲兵工廠*」。
明治初期に建てられた日本軍のアジア最大の40万坪、6万8千人もの従業員を抱える巨大兵器工場。
終戦直前に米軍の爆撃によって多くの建物が破壊され、がれきと不発弾などは放置されて、
危険なため20年間手付かずのままであったが、その後、自衛隊大阪地方連絡所そして使用されたが、
1998年(平成10年)以降は自衛隊が撤退し再び放置されている。
窓はすべて黒いベニヤ板で覆われていて中は見えない。廃墟。
筋鉄門跡(すじがねもんあと)
元和6年(1620年)に開始された徳川幕府による大阪城再築工事で、
筋鉄門はその西の入り口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。
大阪城が見えるが、今回はパス。
大阪OBP クリスタルタワー
新鴨野橋(しんしぎのばし)
かつてこの地には鴫野橋と呼ばれた橋があった。初めて架けられた時期は明確ではないが、
豊臣氏の大坂城築城の後には、城と鴫野村の間にあったと推定される。徳川時代にはこの付近に京橋口御定番下屋敷や、
その他の幕府の施設がおかれ「公儀橋十二ヶ所」の一つと定められた。また近くには弁財天の祠もあり、
梅の花ざかりの頃は多くの人々で賑わったと言われている。
明治時代になって、この辺りは、大阪砲兵工廠の敷地となり、橋も軍の施設となったが太平洋戦争後に大阪市へ引き継がれ、
この間に新鴫野橋と改称された。廃墟と化した大阪砲兵工廠跡も、大阪城公園と大阪ビジネスパークという
新しい街として生まれ変わった。昭和61年より、大阪府の河川改修事業の一環として、
歴史と環境に調和した新しい橋の工事が始められた。(大阪市HPより)
*廠 = しょう 壁仕切りのない、だだっ広い建物
つづく
Mameshiba
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