サッカーに人格があるとして、考えみて欲しい。
競技が行われる場所や、時間で性質は大きく変わってくる。
そうなると、その時々に違った顔を見せるカメレオンの様な性質を持っている事になる。
雨の日には、雨の日の……。
晴れの日には、晴れの日の……。
そんな簡単に、記号化出来る様な素直な性質では無い様に私は感じる。
下手をすると、ある1人の人間の挙動1つであっても……。
様変わりしを、兼ねない。
そんな危うさも、サッカーの性質の一部だ。
では、人間がプレーするに当たって……。
様々な性質も持つ彼等は、どんな事を望むのだろう。
彼等には、選択の自由がある。
そしてサッカーが望まない行動が、ピッチへ向けられた場合……。
どんなアプローチを、取るのだろう。
もし目に見える形で、何か行動で示し続けているのだとしたら……。
逆に、一切の関与や働きかけを禁じているかもしれない。
FIFAが政治的介入を禁止している事は、その1つに過ぎないだろう。
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