檄文!!サッカー

熱くなり、何より愛すべきサッカーについて書きます。
その過程で得られた市民意識を元に、世情についても論述中。

ジュビロ磐田に元清水コーチ(1995年)の関塚 隆が就任

2013年05月20日 18時50分39秒 | Jリーグ+日本代表+アジア

_18年ぶりに、静岡を本拠地とするチーム入り。

しかも、今度は監督として……。

目の肥えたFANから、どんな反響があるのか?

今年に限っては、結果次第なのでしょう。

 

_私は1993年に、シジマールが連続無失点記録を打ち立てた頃から……。

2002年のオフト就任を契機に、浦和のシーズンチケットを譲ってもらい。

駒場で定期的に観戦する様になるまで、清水のサポーターでした。

 

_そんな私も、1995年の選手名鑑で磐田の新人選手の経歴を見た時……。

明らかなLv.の差を感じ、飛躍するチームを前にして心が揺らいだものです。

ただ周りの友人に相談すると……。

「好きなチームは、そういった力関係で判断するものでは無い」

といった意見が多かったので、思い留まりました。

清水のチーム編成に不満が募り、磐田への鞍替えを検討した訳です。

 

_それから、批判的な視点に立って……。

チーム作りを、外から見守っていました。

清水と磐田の新人補強の明暗を契機に、アイデンティティーを確立した訳です。

 

_このシーズンは、斉藤 俊秀のスタメン確約に伴う守備崩壊。

それに伴う、宮本 征勝 監督の求心力低下。

今から考えると、早稲田学閥の力が働いた歪(いびつ)なマネジメントになっていました。

関塚 隆は、宮本監督の懐刀として……。

チームの掌握を、担っていたのだろうと推察されます。

 

_なぜならば、宮本監督は鹿島時代はジーコのパーソナリティに隠れてしまう様な存在であったそうです。

言うならば、縁の下の力持ちを買って出ていらっしゃったのかもしれません。

そうなると、関塚 隆は清水で監督に近い立場でチームを率いていたという事も考えられます。

つまり、それだけ大事に扱われて指導者の道を歩んでこられたのでしょう。

 

_そして、逆境に弱いのは最初からだったのでしょう。

斉藤という新人CB(センターバック)の、大胆起用にケチが付き……。

学閥への反感が逆風となって、そのまま押し切られた1995年。

 

_同じく早稲田大学出身の大榎 克己が、39試合とキャリアハイの試合出場を果たしたのとは対照的です。

押しも押されもせぬ、中盤の重鎮。

人格者でもあり、チームリーダーでした。

結果論で、言わせてもらえば……。

学閥が大榎のキャリア形成の、足を引っ張った様にも思えます。

 

_彼は監督が代わっても、怪我がちだとしても……。

常に、ピッチ入りするメンバーの選択肢と成り得る。

そしてどんな監督であっても、チームを引き締める存在でありました。

 

_つまり、関塚のキャリア形成の犠牲になったのが1995年の清水であったと言えます。

また川崎Fがタイトルに恵まれなかったのも、関塚のパーソナリティに起因する部分もあります。

裏を返せば、まだまだ真価を発揮されていないのが関塚という指導者なのかもしれません。

 

_ただし、どうして彼の様なスタイルが出来上がってしまったのか?

それを紐解くには、清水サポーターとしてサッカーに向き合っていた時間。

これが、私の考察に有用であったのです。

 

_最近は、補強案やコーチ陣の入閣。

自身の年棒にも、異常な執着を持ってクラブとの交渉に挑まれていた様に見受けられます。

裏方であった彼が矢面に立ち、苦境を乗り越えるにあたって……。

コーチ陣が、その助けになるのかもしれません。

 

_そして、自身の年棒についても……。

監督業の地位向上を担う存在として、大いに注目を浴びているでしょう。

しかし、彼が考える補強案がチームにとってベストになるかが問題なのです。

千葉との決裂に、その部分で大きな乖離があった様に考えます

 

_今後、磐田は戦力面でテコ入れが行われる事は間違いありません。

しかし、長い目で見た場合に……。

それがチームに、どの様な影響を帯びてくるのかは未知数なのです。

彼の手腕やチームとしての努力よりも、今後の人事についてサポーターは気を配るべきでしょう。

 

2013年5月21日 0:35 加筆修正



最新の画像もっと見る

コメントを投稿