檄文!!サッカー

熱くなり、何より愛すべきサッカーについて書きます。
その過程で得られた市民意識を元に、世情についても論述中。

常識って言葉が廃れてきた

2008年01月16日 10時46分38秒 | 常識+教育
皆さん、御自身の常識。

自らが属する社会の常識に、どれだけ胸を張れますか。

常識を身につける事が、この世界で生き抜く唯一の道しるべです。

常識を身につけないが故に起こるのが、恐れるべき事態や失態なのです。

無知の知とは、己に備わっていない常識を知る事にあるのだと思います。

また地球社会での生き方についても、人間は無知と言えるでしょう。

だからこそ、環境破壊は起こるのです。

現在の教育の現場で、どれだけ常識が重んじられているのか。

教える教師に常識が備わっていないのですから、無理もありません。

ここは酸いも甘いも噛み分けた、高齢者の見識を持って、子供達や社会に常識を正してやって頂きたい。

昔の紙芝居のおじさんは、そういう役割も担っていたとラジオで聞いた覚えがあります。

今はメディア統制の時代にあるから、識者というのは思想の営業の人に過ぎません。

横綱問題とかクラブW杯の報道内容を見聞きしていて、本当にその酷さに考えさせられました。

メディア同士や、国家間の利害関係にどっぷりはまった思想を宣伝しているだけの識者。

彼らには常識も、自分の価値観も希薄なのです。

ただそこにあるのは、集団への帰属意識。

戦前の日本の社会が背負っていた物と、変わらないのではないでしょうか。

紙芝居のおじさんは、紙芝居という芸能の伝道者であります。

高齢者は社会への帰属が薄れており、そこに自分の価値観が色濃く表れやすいのでしょう。

社会への帰属意識と市民意識は別なのです、そこを日本は未だに理解出来ていないのではないでしょうか。

なぜ市民社会の実現に、宗教観が明治政府成立時に問われたのか。

ヨーロッパでは、市民として認められるには宣誓の儀式を神に対して行う訳です。

市民とは、ヨーロッパでは神を通してから行われます。

日本ではなぜ神を通さずして、社会的安定が得られるのか。

どうして市民意識が植え付けられるのかと、疑問に諸外国では思われた。

それの答えは私が想像するに、お天道様に恥じない生き方が根付いている事が市民意識の拠り所であった事に尽きる。

近代ではそれを、常識と言い換えて社会的安定は図られてきた。

常識が多様化しているのは事実だが、お天道様に恥じない生き方に全く揺らぎは無い。

今は再び常識を再認識するために、お天道様に恥じない生き方を追及する時なのです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿