横田南嶺管長の無門関3日目の提唱は禅問答で名高い「不思善悪」。
あの夏目漱石が27、8歳の時に円覚寺の帰源院で有名な釈宗演老師に参禅した折、「父母未生以前の本来の面目如何」と、「両親が生まれない前のお前さんを見つけてこい」という公案を出されて結局答えを見つけられないまま下山する。
この公案の「本来の面目」というのが「不思善悪」であり、「禅の本質がここにある」と横田老師は力が入った。
なかなか難しいのだが、1時限目のまだ集中力の高い時間帯である。
「人間の心には、どうしたって他人と自分を比べたがるところがあって、それによってねたんだり、苦しみを生じたりするものである」
「そうした善悪にとり付かれた心を取り戻し、善悪とは無関係な微動だにしない心、澄み渡った心……そういう本来の心に立ち戻る」
「その立ち戻った心が『本来の面目』である」
「本来の面目、本来の心を取り戻すのが禅なのである」
とまあ、こういうことのようなのである。
何も邪念を生じさせない心、澄み切った心、周囲に惑わされず、微動だにしない心が本来の心なんだそうである。
確かに邪念だらけ、邪念にまみれて生きてきたことは間違いない。
私も何とか不思善悪に至りたいと毎週、坐禅をしているのだが…
当日券を買う列が長かったが、4日通しの聴講券を持っているので並ばなくても済んだおかげで、大方丈に入ったら縁側に沿ったところの風通しの良い場所にある椅子席が空いていて、そこに座った。お陰で膝も足首も随分楽だった。椅子に座っていれば腰骨をぴんと立てるのも容易である。
らくちんらくちん。集中力も高まるというののだ。
2時限目は横田管長お気に入りの仏教をバックボーンにした詩人・坂村真民の娘婿である西沢孝一・坂村真民記念館館長の「坂村真民という生き方~その人生の詩と魅力」。
「念ずれば花ひらく」
念ずれば
花ひらく
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことばを
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうして
そのたび
わたしの花が
ふしぎと
ひとつ
ひとつ
ひらいていった
「鈍刀を磨く」
鈍刀をいくら磨いても
無駄なことだというが
何もそんなことばに
耳を借す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかも知れないが
磨く本人が変わってくる
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
磨く本人を
光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙の世界だ
だからせっせと磨くのだ
というような詩を書いてきた人である。
3時限目は医学博士で心療内科医の海原純子さんの「ストレス時代を生きる~元気になるための処方箋」。
曰く、ストレスをためないためには「表現することである」。
気持ちが萎えてどうしようもない時、散歩をしたり、ストレッチしたり、ちょっと別なことをすると随分気持ちが変わるものだという。
表現とは愚痴ることではなく、身体を動かすことも立派な表現である。
小さな手帳を身につけていて、ちょっとした思いや考えをその場で書き記しておいて、後で読んでみるだけでも随分と違うそうだ。
我慢を続けることは、自分の気持ちが分からなくなってくるので、逆に危険だという。
滑らかに、適当に笑わせながら語っていたが、「これまでに捨ててしまった人生を一つだけ選んで今の人生に加える」と提案する。
仕事を持って忙しくなったり、家庭を持ったためにあきらめざるを得なかったような事柄、趣味でもなんでも。
それを再チャレンジしてみるんだそうだ。
少しずつ努力して、進歩を自身で見られるようにすると、人生が深くなり、時にはひとに分けてあげることもできるようになるんだそうだ。
自身は学生時代に生活費をねん出するため、新宿のライブでジャズボーカルとして歌っていたものを思い出し、最近復活させたそうだ。
「鎌倉にもありますね。生の演奏を聞かせるジャズバーが。そこのステージ立っているかもしれません」とも。
そう言えば初日の田部井淳子さんはシャンソンを習い始め、“痴呆公演”までしているそうな。やるもんだ。
確かに達人は人生をより深くしているようである。
詩の国を残せし人や夏期講座 花葯
円覚寺仏日庵脇の澄み切った青空
横田南嶺管長が住職を務める黄梅院の山門脇には月替わりで、自ら筆を執った坂村真民の詩が掲げられる
最新の画像もっと見る
最近の「日記」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事