開山忌法要はどこの寺でも同様だろうが、最も盛大に行われる行事で、円覚寺でも200余りの末寺を含む円覚寺派の和尚さんたちが参加して盛大に執り行われた。
無学祖元は鎌倉幕府第8代執権の北条時宗の招きで中国・宋の国から来日。蘭渓道隆が開祖を務めた建長寺の住持に就いたが、2度の元寇の犠牲者の霊を弔うために時宗が創建した円覚寺の開祖に迎えられる。
臨済宗無学派の祖で、その教えは老婆禅とも呼ばれた懇切丁寧なものと伝えられ、多くの鎌倉武士の参禅を得て大きな影響を与えたとされている。
舎利殿での法要に続いて、仏殿に移って続けられた法要を見た。舎利殿には近づくことはできないし、仏殿も中には入れないが、仏殿前にモニターテレビが設置されていて、中の様子を映し出している。
横田南嶺管長を中心に行われる法要の一つひとつの所作を含んだ行いがどういう意味をもつものか、さっぱりわからないが、ゆったりとした動作で、結構長々と繰り返されるのだ。
敢えて言葉で表せば、静かに、厳かに、ということだろう。
法要は2日間に渡って開かれ、寺のホームページによれば最終日の最後に「四ッ頭」と呼ばれる儀式があるそうだ。
中国・宋時代に宮廷・禅宗寺院で行われていた古式の食事作法だそうである。茶事作法の原点であるともされているんだそうな。
かつてこの行事を見学した東洋史研究の大家の1人は「宋朝の宴会の作法が化石のように現存している」と言って驚いたそうだ。
もっとも、宴会と言っても円覚寺で酒池肉林の宴が行われるわけはなく、宴会という表現にもいろいろあるのだろう。
約700年の間、何も変わらず、往時のままの所作がそっくりそのまま残されているということのようである。
行事と言うものはどんな伝統行事でも一か所で続けられていく場合は、年々変化するかどうかは別として、一定程度の歳月を経る中で少しずつ変わっていくのでななかろうか。
京都の葵祭なんぞはいつのころから始まったのか知らないが、原型というものはどこまで残されているのだろう。
それで思い当たることがある。今から25年くらい前のことだが、南米4カ国の日本人移民のそれぞれの拠点を3週間に渡って視察した時の経験である。
それぞれの移住地で感心したというか、衝撃に近い思いを味わったのが、日本の明治時代から戦前にかけてのものだろうと思われる立ち居振る舞い、習慣が、それこそ「化石のように」残されていることだった。
例えば礼儀作法ひとつとっても実に丁寧。相手の眼を真っ直ぐに見て、きちんと丁寧なお辞儀をする。年上の人に対する自然な敬意の表し方、などなどである。小学生くらいの子どもたちにもそれが引き継がれているのだ。
高度経済成長期を経てすっかり変わってしまった本国ではほとんど跡形も残っていないようなものが、彼の地で脈々と息づいていたのである。I
「国を離れた人びとのアイデンティティーの拠り所なんです」と説明されたが、それこそ、余計なものがそぎ落とされ、真髄そのものが磨きをかけられて残されているように思えたものだ。
円覚寺に残された行事の所作も同様に大切にされてきたんだろうと思う。
さて話は変わって、仏殿前で見ていたら、朱塗りの傘をさしかけられた和服姿の世俗の男性が案内されてきて、仏殿内に入って行った。どこかで見た顔だなと思ったら、7月の夏季講座で講師を務めた茶道裏千家の千宗室家元だった。
仏殿前のテントにはこれまた和服姿の歳をとったご婦人たちが大勢集まっていたし、ははぁ、茶事作法の原点も開かれるし、それに招かれたり、茶会が開かれたりするんだな、と合点した。
禅宗の坊さんによって日本にもたらされた茶は、禅宗とは切っても切れない関係なのである。
なるほど、茶の湯の道に熱心な人びとには裕福な階層の人たちが多い。こうした催しをにぎにぎしく開けば、茶だけ飲んでさっさと帰るということはあり得ない。そのお布施の額は生半可なものではないはずである。
生産拠点でもない宗教施設でいくばくかを稼ごうとすれば、何か行事を行うのは自然な流れなのである。なかなか商売上手ではないか。
こんなことを書き連ねると、不謹慎な奴め、純粋に開祖の遺徳をしのんでいるのだ、と一喝されかねない。
ついつい、こういうものの見方をしてしまうのだが、ま、一方でそういう見方もできるということで…
円覚寺開山忌で舎利殿での法要を終えて仏殿に移動する横田南嶺管長ら僧侶
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