20~25分の坐禅を3回繰り返した後、般若心経と坐禅和讃、延命十句観音経、延命十句観音和讃、四弘誓願を15分間唱えて終了。
第1と第3の日曜日は管長の横田南嶺老師による提唱が40分ほどあるのだが、この日から集中して禅の修行に入る「制末大摂心」の初日で、雲水たちの指導にかかるため、我われ居士たちへの提唱はお休み。
その分、坐禅だけに集中しなければならない。
場所はいつもの大方丈ではなく、2週間前の前回に引き続いて在家の居士たちのための修行道場である居士林。
堂内は薄暗く、100年前の柳生流剣術道場の名残を漂わせる黒光りの床板がわずかに外の光を鈍く反射するだけ。
49年前の夏休みに10日ほど過ごした時は、横須賀線の踏切から電車が通るたびに耳に届いていた警報機の音も聞こえず、雨音とわずかな鳥の声だけが聞こえてくるだけで、これまでになく集中して座れた。
視界の届く範囲に太ももをあらわにした女性がいなかったのも幸いしたかもしれない。
3回目に油断をしてしまって、呼吸への集中がおろそかになってしまったが、雲水たちは毎日毎日、寝る間も惜しんで1時間、2時間単位で呼吸だけに集中して座り続けていく。並大抵のことではない。
それほどは厳しくはないが、1日の大半を坐禅して過ごす居士林での生活を10日ほど続けた高校3年の夏は、我ながらよくやったものだと今更ながら感心する。もう一度やってみたい気もするが、とてもできそうにはない。
5日連続して降りこめている雨が小ぶりだったので、亀ヶ谷坂を抜けて六地蔵の古本屋まで歩いた。
運動不足の解消である。
円覚寺の山門を出て鎌倉駅までが30分。駅から六地蔵までが10分。
雨の鎌倉と言うのも良いものである。
雨雲が低く垂れこめて薄暗い空から落ちてくる雨は陰気だが、明るくて高い空から落ちてくる雨なら、伽藍の大屋根や周囲の緑にふさわしい。
第一、雨が続くと観光客が極端に少ないから静かである。
木立に覆われた亀ヶ谷坂などは元々観光客の多いところではないが、抜けるまでの10分ほどの間に誰ともすれ違わなかったし、ただ1人、リュックを担いだ若者が追い抜いて行っただけである。
普段なら行き交うのも大変なほど込み合っている小町通りだが、こういう天候ではさすがに人の通りは減っていて、傘をさしている割には比較的歩きやすかった。
古本屋を目指したのは目当ての本があって、古本屋を覗けばあるかもしれないと考えたのだ。
新刊の本屋さえ減っている時代に、横浜でも鎌倉でも古くからの古本屋はだいぶ姿を消してしまったが、ここ六地蔵には1軒だけだが健在である。
小さなボリュームでモーツァルトが流れている店内には、私より年上の婦人が店番をしているだけ。
天井まで届いた書棚にはぎっしり本が詰まり、平積みのところにも乱雑と言ってよいくらいにうず高く積み上げられている。
懐かしい古本屋の光景である。
目指す本は見つからなかったが、あの古本の匂いと言うのは独特で、時々嗅ぐのも悪くないな、と改めて思った。
「庄内平野」という昭和10年発行の小説に目が止まったが、そのまま書棚に戻してきた。
満州分村計画とやらをテーマにした小説らしく、もう少し田園っぽければ気持ちが動いたかもしれない。
雨の円覚寺境内
北鎌倉から鎌倉の中心街へ抜ける亀ヶ谷坂。人の姿を見かけたのは追い抜いて行った1人だけ。
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