外気温もさして寒くはない。上空の空気も同様に雪を作るほどに冷えてはいないと見える。
子どもは雪を望んでいるだろうし、情緒の点から見れば雨より雪が勝るが、ドカッと降られたのでは何かと差し障りが出る。
願わくば未明から降り出して、目が覚めたら白銀の世界が広がっていて、日中一杯楽しんで夕方には溶けて消えて行く。
そんなうまい具合にならないものだろうか。
今日は年に2、3回のゴルフの予定だった。車で30分ほどの茅ヶ崎でやる予定だったが、さすがにキャンセルである。
ああいう遊びはブルブル震えながらやるものではない。雨だってご免こうむる。
遊びはさんさんと降り注ぐ太陽の下でやるものである。なにもゴルフに限ったことではないが…
立春に入った途端に雪の予報が出たりすると、季節が動き出したんだなぁ、と実感する。
西高東低の典型的な冬型の気圧配置が崩れ始めた証拠である。
これまで盤石だった気圧配置に緩みが生じ、南岸低気圧が生まれて太平洋岸を北上してゆき、天気が崩れる。
この繰り返しで春がやってくるのだ。
春一番はいつ吹くのだろう。待ち遠しい。あの暖かい空気が届くと踊りだしてしまうかもしれない。
わが家の北側の日の当らない一角に毎年、蕗の薹が顔をのぞかせる。たいした数ではないのだが、毎年必ず姿を現す。
これを蕗味噌にして酒のつまみにする。あの独特の苦みは、それこそ春の便りであり、味わいであり、香りである。
スーパーで買ってくる蕗の薹では駄目である。
裏庭の蕗の薹を楽しみに待っているところなのだ。
ハイドンとヴィヴァルディがそれぞれ「四季」を作曲している。
両方の曲とも、「待ちわびた春」の浮き立つような、明るく輝きに満ちた旋律が印象的である。どこにいてもこのメロディーが流れてくると耳が動くんである。
特にハイドンの四季はオラトリオという形式の楽曲である。宗教的な題材を音楽劇に仕立てたものをオラトリオと呼ぶが、この四季はオーストリアの農民を題材にした、どこか土着的な匂いを感じさせる曲である。
クラシック音楽のなかで大好きなもののひとつである。聞くと、とても穏やかな気持ちになる。
ベートーベンにも「春」と題したバイオリンソナタがあって、これは頭の中にできた動脈瘤の手術で入院した時、枕元で繰り返し聞いた特別な曲である。
春という季節は芸術家の魂も揺さぶる季節なのである。
今日は何も予定がないから、掘りごたつに潜り込んでこれらのCDを聞きながら山本周五郎の中短編秀作選集を読むつもりである。
雨読としゃれこむのである。
昨日読んだ「内蔵助留守」「つばくろ」「山茶花帖」はとても良かった。
蕗の薹があればなぁ…
3日の節分で訪れた長谷寺の「春」。上から「国光」という名前のついた真紅のボケ、マンサク、紅白2本が並んだウメ
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