平方録

どうしたって活字が滲んでしまう

午前5時前、西の空には十六夜の月が煌煌と輝いている。結局、雪は昨日の午前10時ころから2時間程度舞ったが、それも途中から雨に変わり積もることはなかった。
寒々とした一日で、昼過ぎには妻も出かけてしまい、掘りごたつに潜り込んで日がな一日、ハイドンとヴィヴァルディの「四季」、ベートーベンのバイオリンソナタ「春」などのCDをかけながら読書三昧で過ごす。

新聞にじっくり目を通した後、山本周五郎の「柳橋物語」にとりかかる。
しかし、どうして作者はあれほどまでに主人公の「おせん」をいたぶるのだろう。周りの人間だってどれほど切なく、苦しまされることか。
途中4か所で先に進めなくなってしまった。活字が滲んでしまうのである。
情景を思い描き、当事者の気持ちを思うとさらに滲みがひどくなる。先に読み進むどころではない。
嗚咽こそこぼれなかったが、声を出して泣きたいくらい揺り動かされる。

7、8年前だろうか「三丁目の夕日」を映画館で観て、やはり声をあげて泣きそうになったことがある。
涙腺が緩む年代に入ったんだなぁ、と思ったものである。隣で妻も観ていたので、ポロポロ涙を流して嗚咽するところなんか恥ずかしくて見せられないから必死に我慢したんである。
一人で知らない町の空いた映画館で観ていたら、どうなっていたか分からない。

中学生の2年か3年の時、一人でヘレンケラーを描いた「奇跡の人」を観に行った。
クライマックスの場面で涙が止まらず、しゃくりあげるようにこみ上げてくるものもあって、往生した。
映画館の中でヒックヒックと喉から音を漏らして泣くなんて出来っこない。
しかも、映画はその場面で終わり、涙が乾く間もなく、しゃくりあげてくるものも完全に収まらないうちに、場内は徐々に明るくなっていく。
当時は学帽をかぶっていたので、目深にかぶり直し、座席に身体を深く沈めてじっと動かず、次の回が始まって辺りが暗くなるのを待ってようやく席を立ったことを思い出す。
純情ではあった。

感動して流す涙は別にいけないことでも恥ずかしいことでもないんだろうが、濡れてくしゃくしゃになった顔を人前にさらすのは気恥ずかしいものである。大いに抵抗がある。
山本周五郎を読むと活字が滲んでしまうことが、ままある。作者の思うつぼになりやすい読者と言ったところか。
余韻というものは残るもので、この日はほかの作品を読む気にはとてもなれなかった。

朝、妻が蕗の薹を見つけに出てくれて、まだ早いのか「これしかなかった」と二つ手のひらに載せてきた。
蕗味噌にしてもらい、夕方、米沢に行ったとき買って、飲まずに持って帰ってきていた「東光」のカップ酒を飲みながら、口にしてみた。
たった二つしか採れなかった蕗の薹だから、出来上がった蕗味噌もわずかな量しかないが、1合のカップ酒にはこれで間に合う。

第一、土の香りと云うのか、春の香りと云うのか、日の当らない北側で、寒中は脱したとはいえ寒さの真っ盛りに顔を出してくる芽である。中身が詰まっていると云うか、生命力がたぎっているというべきか、特有の苦みと香りがとてもしっかりしているから、酒を引き立てることこの上ない。
安もののカップ酒がとてつもない銘酒に感じられるほどである。

雨の1日もまた楽しからずや。



わが家の裏庭で獲れた初ものの蕗の薹二つ


米沢の「東光」と蕗味噌


雪は降るには降ったが…
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