平方録

「小に生きよ」

1月はやっぱり時間が進むのが遅く感じられる。
正月はもう忘却の彼方かと感じられるのだが、実際にはまだ19日である。
3分の2が経とうとしているに過ぎない。
これまでと違って、日常の過ごし方が変化したのだから、時間の経つのも必然的に変わっていくんだろうと思っていたが、こと1月の速度に関しては変わらないと見える。
変わってほしいのか、変わらないままでいてほしいのか、自分でもよくわからない。
よく分からないというより、本当のところはどうでもよい。
なぜ気にするのかと言えば、変化を見たいと思っているだけのことである。
これまでと違うならそれはそれでいい。その変化を認識して受け入れるだけだ。逆らうつもりなど毛頭ない。
変わらないなら、あぁ、そうなんだ、と思うだけである。

年明け早々にフランスで風刺画週刊誌を発行している新聞社でテロが起き、編集長をはじめ十数人が亡くなった。これに関連して別の人間がユダヤ系の食材店を襲い、ここでも犠牲者が出た。
フランス国民にとっては衝撃的な大事件である。表現の自由を守れ、と数百万人がデモ行進したが、フランス革命を経て手に入れた自由を誇る国民にとっては立ち上がらなければならない事態である。
そのこと自体はごく当然の流れのように思える。
第一、気に入らない、侮辱された報復だという理由で問答無用に銃弾を浴びせかけるという行為は、いくらなんでも野蛮すぎる。
宗教だって言葉や文字で教えを伝えているんだろうに。言葉を持っているんだったら、せめて…
しかし、待てよ、という何か釈然としない気持ちもある。
例えば日本と中国、日本と韓国、こんな近い地域で暮らしていても、生活スタイルやらものの考え方など、随分と違っている。
文明や宗教というくくり方をすれば違いはもっと際立つ。
畢竟、ある種の価値観に基づいて生きている場合、それを大切にするのは当然だが、自分に大切なものがあるなら、他人にも大切にしているものがあるんだ、ということ。それへの配慮も欠かせないってことが、ふと脳裏をよぎる。

昨日の円覚寺大方丈は寒かった。外と内とを隔てる戸板は締められていたが、間口の広い玄関は開けっ放しだから、暖房も何もない大方丈の空間は外と一緒である。
朝8時から1時間半。坐禅を組みながら横田南嶺管長の「伝心法要」という教えの法話を聞く。
この日の中心は『捨』ということ。捨てるべきものを3つに分けているが、大中小のすべてを捨て去れ、空になれ、と云う。
過去、現在、未来も捨て去れ。宇宙の真理も研さんを積んだ仏教の教義(これまでに身に付けた教養・知識)も、果ては自分の日常の気がかりや悩みも、すべて捨て去れ、と云う。
言葉では語られていることの表面的な意味は分かるが、実際にそんなことができるものなのか? 現在も捨てろってどういうことなんだ、と凡人の悲しさである。
そんな疑問や逡巡は誰にでもあるとみえる。
管長は続ける。「17日は阪神淡路大震災から20年目の節目でした。そして間もなく東日本大震災から4年目を迎えます。大きな被害が出たこと、身内や知人を含めて大勢の方が亡くなったということ、それらを忘れ去れ、捨て去れ、と云っているのではありません。われわれは『小』に生きればよいのです。そうした痛哭を忘れず、犠牲になった人たちの冥福を祈り、復興に向けて努力を続けて行かねばならない、ということもあるのです」
「小に生きよ」か…

この教えは金剛経の重要な教えのひとつでもあります、と云う。
昨日書き留めておいた「応無所住而生其心」の金剛経である。通い始めて半年。管長の口から「禅宗で大切にしている経典が金剛経である」と初めて耳にした。因縁を感じる。おっと、そういうこだわりも捨てよ、と教えられたばかりではないか。

身体は芯まで冷えてしまった。外に出たら、妙香池に氷が張っていた。この池が凍結するなんて、寒いはずである。円覚寺のある北鎌倉は地形の関係か、周辺より確かに寒いと言われている。日だまりでしばらく体を温めてから帰ってきた。




すっかり凍結してしまった円覚寺の妙香池
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