しかも、身を崩さぬだけのしまりはもってゐる。煮ても焼いても食えぬ奴と云う言葉とは反對に、煮てもよろしく、焼いてもよろしく、汁にしても、あんをかけても、又は沸きたぎる油で揚げても、寒天の空に凍らしても、それぞれの味を出すのだから面白い。
又、豆腐ほど相手を嫌はぬ者はない。チリの鍋に入っては鯛と同座して耻ぢない。スキの鍋に入っては鶏と相交つて相和する。ノッペイ汁としては大根や芋と好き友人であり、更におでんに於ては蒟蒻や竹輪と協調を保つ。されば正月の重詰の中にも顔を出すし、佛事のお皿にも一役を承らずには居ない。
彼は実に融通がきく、自然に凡てに順應する。蓋し、彼が偏執的なる小我を持たずして、いはば無我の境地に至り得て居るからである。
金剛経に「応無所住而生其心」とある。これが自分の境地だと腰を据ゑておさまる心がなくして、與へられたる所に従って生き、しかあるがままの時に即して振舞う。
此の自然にして自由なるものの姿、これが豆腐なのである。 」
のっけから長々と引用したが、俳人の荻原井泉水の「豆腐」という随想である。
井泉水は放浪の詩人・種田山頭火や尾崎放哉の師で、大正から昭和にかけて盛んだった自由律俳句運動のリーダーだった人物だ。
ユーモアを交えながら軽妙に、しかも豆腐の神髄を好く語り尽くした名文であると思う。
ここには湯豆腐が記述されていないが、庵に一人静かにいる場面は言わずもがな、なのかもしれない。
この名文に出会ったのは今から17、8年前のことである。
ちょっと嫌なことがあってクサクサしていた時だった。そういう時だったから目に留まったのかもしれない。
こういう豆腐のような、肩の力を抜いた人間になりたいものだと思ったのである。
わけても、「応無所住而生其心」という金剛経の一節は気になって、金剛経の解説書まで手に入れて読んでみた。
金剛経は禅宗で大切にされていて、特に臨済宗では大事な経のひとつらしい。
意味は井泉水が書いた「これが自分の境地だと腰を据ゑておさまる心がなくして、與へられたる所に従って生き、しかあるがままの時に即して振舞う」という通りであり、鴨長明の方丈記などにもそうした考え方が流れているようにも思える。
オウムショジュウ ニショウゴシン と読む。
そして「応(まさ)に住(じゅう)する所無くして、而(しか)も其の心を生ずべし」と読み下す。
「住(とど)まる処が無い」というのは、心が一か所、一つのことにとどまらないこと、執着しないこと、こだわらないことであり、そうしたところにこそ「其の心を生ず」といい、融通無碍の心の働きが現れる、というような事であるらしい。
何か迷うことが起これば、むしゃくしゃすることが起これば、あるいは腹が立って仕方のないような事に直面した時、念仏のように(お経の一節だが)ぶつぶつと唱え、一文を大空に思い描き、あるいは手のひらに指で書いてみるのである。
高倉健さんはいつも持ち歩く鞄の中に「男としての人生 山本周五郎のヒーローたち」があって、始終読み返していたという。
「応無所住而生其心」の一節は、健さんの鞄の中身と同じ類のものなのである。
稲村ケ崎の浜
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