姫の暮らす宇都宮では雪化粧するほどであったから、尋常ではない。
しかも、天気は安定せず、晴れ、晴れ、雨、雨、雨、晴れ、雨、雨…とめまぐるしい。
晴れれば暖かくなるが、降れば冬に逆戻りしたかのような気温の低さである。
ゆったりとのどかな春日を楽しむ、というような心持にもならないし、だいいちそんな春日がなかなか現れない。
そうぼやく毎日だったが、昨日は突如の雷雨にご注意、などと天気予報は散々脅かしていて、実際東京の都心あたりではそうだったらしいが、わが海岸べりの街はそんなこともなく、特に午後からは些か風があった程度で陽の光に恵まれて気温も20度くらいまで上がったようである。
こうなると、些か身も心も軽くなり始めるから不思議なものである。
ぼちぼちよかろうと思い立って、冬物をしまいこんでこれからのシーズンの衣類に置き換える作業を行った。
冬物との交換作業と違って、春物への交換作業はそれだけで浮き立つような気分である。
ついでに短パンに履き替え、寝るまでそれで過ごした。
冬の分厚い衣装の下で意思に反して“増殖”の一途だった脂肪の輩も、見過ごすわけにはいかない。
薄物に着替える折に、みっともない姿をさらしてなるものか。
遠慮なく増殖したものをすぐさま蹴散らせるわけでもないが、せめて少しでもそぎ落とす努力を始めなければ。
なまった筋肉を再稼働させるのは、違った、原発じゃあないのだから、筋肉は再躍動が相応しい。
筋肉を再び蘇らして、燃焼効率を取り戻すのにはしばしの時間がかかるが、放置しておくわけには行かぬ。
腹筋や大腿直筋などは早速悲鳴を上げたが、知ったことか。頑張ってもらうしかない。
ま、立春辺りからぼちぼち始めていたらとか、一年中筋肉を休ませないでいた方が良かった、などという声も聞こえはするが、そんなのものは建前であって、寒さの極みに震えながらできるものか。
人間とは堕落とともに暮らす生き物なのである。堕落と親友になってしまうことだってあるのだ。
悪たれはほどほどに、春日に想う句を5つ。
少年や六十年後の春の如 (永田耕衣)
風おもく人甘くなりて春くれぬ (加藤暁台 元尾張藩士)
蝶々のもの食う音の静かさよ (高浜虚子)
春の海ひねもすのたりのたりかな (与謝蕪村)
静かさに堪えて水澄むたにしかな (与謝蕪村)
最初に掲げた二つ、どう解釈したら良いのかなぁ。
春日に輝くチューリップ。手前はアネモネ。
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