Gipsy Etiquette

08年春から東京で独り立ちしたYasuの奮闘日記

11年

2006-01-17 | Weblog
17/1/2006

阪神淡路大震災から今日で11年目。
被災者として、あの大地震は感慨深いものがあります。

当時僕は9歳の小学校低学年。神戸ではなく、もうすこし大阪よりの伊丹というところに住んでいました。
地震があったその日の朝のことは今でもはっきりと覚えています。

ゴーっという地響きのような轟音と、凄まじい揺れで二段ベッドの一階で目が覚めます。
9歳の頭で、とっさにそれが地震だと判断できるわけがなく、ただ、大きな揺れの中で驚きと、恐怖を覚えました。

揺れはどのくらい続いていたのでしょうか?
その中で覚えていることは、別室で寝ていた両親からの「動くな!いいか、動くんじゃない!」という必死の叫び声と、二階で寝ていた妹からの「怖い!怖いよ!」という恐怖の交じった泣き声だけ。

ゆれが終わった後、はっとして部屋を見渡すと、床一面にいろんなものが散乱していました。そしてすぐに親が駆けつけてきて、「大丈夫だったか?」と僕たちの安否を確かめてくれました。

それから後のことははっきりと覚えていません。その住んでいたマンションは12階建てという高層マンションで、僕たちがいたのは9階。倒壊の可能性があるということで、生活用品一式をそろえてマンションの下の公園に出て行きました。

まだ小学生だった僕らは楽観的でした。
同じマンションの子供たちと公園で集り、のんきに鬼ごっことかしてたし、休み明けの学校に行かなくていいんだと、深刻な顔をしてる大人たちをよそに、キャッキャッと遊んでいたのを覚えてます。

幸運にも僕たち家族は、大阪の知り合いのおうちに滞在できることになります。小学校の体育館でしばらく避難生活をすることになった同じマンションの友達もいるなかで、震災当日の夜から暖かい布団と、暖かいごはんが食べれたのは、今考えると、とてもありがたいことです。ほんとにお世話になりました。

この大阪へ行くまでの町並みはまさに地獄でした。
まだ幼かった僕にとっても、壊れた建物や、崩れ落ちた高速道路は印象に残っています。

おかげさまで、地震後のつらい生活は体験せずにすんだわけなのですが、地震の揺れの恐怖は今でもまだ覚えています。

今年成人式に出席した僕で、こんな曖昧な記憶です。もっと若い世代の人は、記憶がもちろん薄れていくでしょうし、地震を体験してない世代も今に出てきます。

でも、この地震の恐怖は、これからもずっと伝えていかなければならないもの。
震災を体験した人から、じきじきに多くのことを語り、そしてこの世代が被災者として、地震対策を導いていく必要があります。

救いの手を差し伸べてくれた全国各地からのボランティアの皆さんのためにも、今こうやって、対策を率先して誘導し、お返しをするときなんだと思っています。
今後一人でも多くの犠牲者を減らせれるように、僕たちが自ら率先して社会貢献していくべきですね♪

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