異文化交流クイズ。ファーストシーズン第3回。
今回登場して頂くのはこの分野では有名人、幕末期にイギリスの外交官として活躍したアーネスト・サトウ。「サトウ」なんて名前ですが、歴とした生粋のイギリス人です。
もっともサトウの日本語の堪能振りは有名で、幕府の役人がその通訳ぶりを褒めたところ「おだてと畚にゃ乗りたかねえ!」って、バリバリの江戸弁で啖呵を切った、と云われているくらいです。
さてこのサトウ、1862年に19歳の若さで来日。しかし日本到着6日後には生麦事件に遭遇。その後は薩英戦争にも公使館使節として軍艦に乗船。詳細な記録を残しています。
以降、この若さと「公使館通訳生」という低い身分にもかかわらず、イギリス公使パークスの分身のような存在として活躍。
多分幕末維新時の有名人で、彼と会ったことのない人間の方が少ないだろう、というくらいです。
その代表的な記録「一外交官の見た明治維新」を読んでいると、本当に様々な人物が顔を覗かせてワクワクさせられます。
一人一人上げているときりがないので上げませんけれど「以前島津左仲と名前で会った大男が、後に改めて紹介されて会ってみると実は西郷隆盛だった」なんてシーンはまるでドラマのようだったり。
このサトウの記録のお陰で、かなり客観的に当時の維新志士の「人と為り」が分かるわけですが、さて、ここで今回のクエスチョン。
1867年9月3日、サトウがイギリス軍艦の水平殺害に関する談判の席に出た際、出席していた『日本史上のある有名人』をサトウは怒鳴りつけています。
さてこの有名人とは一体誰でしょう?
以下、その部分の記録抜粋。
「更に○○も叱りつけてやった。彼は明らかに我々の言い分を馬鹿にして、我々の出す質問に声をたてて笑ったからである。しかし私に叱りつけられてから、彼は悪魔のような恐ろしい顔つきをして、黙り込んでしまった」
ヒント:多分、我々がその人物に抱いているイメージとは懸け離れたものでしょうね、この記録は。
回答編は明日の昼12時にアップ予定です。
今回登場して頂くのはこの分野では有名人、幕末期にイギリスの外交官として活躍したアーネスト・サトウ。「サトウ」なんて名前ですが、歴とした生粋のイギリス人です。
もっともサトウの日本語の堪能振りは有名で、幕府の役人がその通訳ぶりを褒めたところ「おだてと畚にゃ乗りたかねえ!」って、バリバリの江戸弁で啖呵を切った、と云われているくらいです。
さてこのサトウ、1862年に19歳の若さで来日。しかし日本到着6日後には生麦事件に遭遇。その後は薩英戦争にも公使館使節として軍艦に乗船。詳細な記録を残しています。
以降、この若さと「公使館通訳生」という低い身分にもかかわらず、イギリス公使パークスの分身のような存在として活躍。
多分幕末維新時の有名人で、彼と会ったことのない人間の方が少ないだろう、というくらいです。
その代表的な記録「一外交官の見た明治維新」を読んでいると、本当に様々な人物が顔を覗かせてワクワクさせられます。
一人一人上げているときりがないので上げませんけれど「以前島津左仲と名前で会った大男が、後に改めて紹介されて会ってみると実は西郷隆盛だった」なんてシーンはまるでドラマのようだったり。
このサトウの記録のお陰で、かなり客観的に当時の維新志士の「人と為り」が分かるわけですが、さて、ここで今回のクエスチョン。
1867年9月3日、サトウがイギリス軍艦の水平殺害に関する談判の席に出た際、出席していた『日本史上のある有名人』をサトウは怒鳴りつけています。
さてこの有名人とは一体誰でしょう?
以下、その部分の記録抜粋。
「更に○○も叱りつけてやった。彼は明らかに我々の言い分を馬鹿にして、我々の出す質問に声をたてて笑ったからである。しかし私に叱りつけられてから、彼は悪魔のような恐ろしい顔つきをして、黙り込んでしまった」
ヒント:多分、我々がその人物に抱いているイメージとは懸け離れたものでしょうね、この記録は。
回答編は明日の昼12時にアップ予定です。