異文化交流クイズ、セカンドシーズン新シリーズ第4回は「ジャポニズム」のフランスへの本格的な流入についてからの出題です。
日本の品物を扱う商店がパリに最初に登場したのは1860年初頭。もっとも店名が「支那の門」というのは如何な物かとw。
それでも最初の浮世絵の到着による衝撃とそれをきっかけとした愛好家達の熱狂振りは凄まじく、美術批評家として日本美術に関する記事を発表したアストリュックは以下のように書き記しています。
『もっとも慎ましい絵冊子ですら高値で競りにかけられた。人々は商品の到着を待ち伏せて、あちこちの店を駆け回った。花瓶や布地や着物しか見つけられなかったときの何という失望! しかし着物だってとても貴重な物なのだ。繊細な彫金細工を施した箱、彫刻を施した玩具、眩いばかりの模様で飾られた漆器、動物や魚や風変わりなブロンズが、法外な値段で飛ぶように売れた。素描はとりわけ画家や造詣の深い愛好家に適していた』。
とはいえ、本格的にパリの人々に日本美術と触れさせることになるのは1867年のパリ万博のこと。
幕府以外にも、薩摩藩、佐賀藩などが出展したこの万博では、日本の家の模型や武者人形、浮世絵類、屏風や絵巻物、そして刀剣、磁器、蒔絵漆器、根付などなど、後に人気を博する物が大集合といった具合です。
しかもその殆ど全てが万博以後に売り立てられ、かなり幅広い愛好家達の手に渡ったことから、ジャポニズムのブレイクの大きなきっかけとなります。
そしてそれが最高潮に達したのがその11年後。1878年のパリ万博において。
ある批評家は当時の状況をこう表現しています。『もはや流行ではなく、熱狂であり、狂気であった』と。
同じ年に、フランス装飾美術振興の旗振り役の一人であったエルネスト・シェノーが発表した論文『パリの日本』で、日本美術蒐集の実態とフランス美術に与えた影響について以下のように明瞭に記しています。
『少しでも学識を鼻にかけたいのならば《フランスの芸術と産業に対する日本の諸芸術の影響について》という題名で大仰な論文を書くことが出来るだろう。この相当に大きく明白な影響は、主要なものを挙げるだけでも、我が国のブロンズや壁紙や陶器などの製造において一種これ見よがしに告白され、誇示されてさえいるが、それはまた、人々の支持を受けている何人かの画家たちの才能にも、潜在的でもっと覆い隠された形ではあるが、やはり確実に作用したのだった。実際、日本美術の趣味がパリに確実に根を下ろし、愛好家たちや社交界の人々に伝わり、その後工芸品に幅を利かせたのは、我が国の画家たちを介してである。その熱狂は、導火線の上を走る炎のような素早さで、すべてのアトリエに広がった』。
以下第1回でも述べた各論なので省略しますが、この論文から分かるのが、1860年代におけるジャポニズムの初期形成は画家達が、特に伝統的な美術の変革を目指していた印象派の画家たちが先行主導していたということ。
そして浮世絵版画から受けた衝撃が、ルネッサンス以来の西洋絵画の表現様式を根本的に刷新するプロセスに深く関わっていくことになるわけです。勿論この点を過剰に強調するのは問題がありますけれど。
さて、そんな画家達の中で一番初期に導入かつ一番ジャポニズムの要素を備えていると云われるのが、これまた日本でも有名なエドゥアール・マネ。
そして彼の(少なくとも日本では)最も有名な作品と云えば『笛を吹く少年』。
実はこの作品、発表された1866年当時の風潮としては当然の事ながら、というべきか、サロンでは落選しています。
遠近感を廃し、人物の動きを効果的ながら最小限にとどめ、コントラストの強い色を平面的に用いている様は浮世絵の技法そのものですね。
ここで今回のクエスチョン。当時としては異端だったこの作品を高く評価したジャポニザンの同志でもある「とある批評家兼作家」の肖像をこの2年後マネは描き、これまたジャポニズムの影響の色濃い作品として後世に知られることになりますが、当時はまだ駆け出しだった、この「とある作家」とは一体誰でしょう?
日本の品物を扱う商店がパリに最初に登場したのは1860年初頭。もっとも店名が「支那の門」というのは如何な物かとw。
それでも最初の浮世絵の到着による衝撃とそれをきっかけとした愛好家達の熱狂振りは凄まじく、美術批評家として日本美術に関する記事を発表したアストリュックは以下のように書き記しています。
『もっとも慎ましい絵冊子ですら高値で競りにかけられた。人々は商品の到着を待ち伏せて、あちこちの店を駆け回った。花瓶や布地や着物しか見つけられなかったときの何という失望! しかし着物だってとても貴重な物なのだ。繊細な彫金細工を施した箱、彫刻を施した玩具、眩いばかりの模様で飾られた漆器、動物や魚や風変わりなブロンズが、法外な値段で飛ぶように売れた。素描はとりわけ画家や造詣の深い愛好家に適していた』。
とはいえ、本格的にパリの人々に日本美術と触れさせることになるのは1867年のパリ万博のこと。
幕府以外にも、薩摩藩、佐賀藩などが出展したこの万博では、日本の家の模型や武者人形、浮世絵類、屏風や絵巻物、そして刀剣、磁器、蒔絵漆器、根付などなど、後に人気を博する物が大集合といった具合です。
しかもその殆ど全てが万博以後に売り立てられ、かなり幅広い愛好家達の手に渡ったことから、ジャポニズムのブレイクの大きなきっかけとなります。
そしてそれが最高潮に達したのがその11年後。1878年のパリ万博において。
ある批評家は当時の状況をこう表現しています。『もはや流行ではなく、熱狂であり、狂気であった』と。
同じ年に、フランス装飾美術振興の旗振り役の一人であったエルネスト・シェノーが発表した論文『パリの日本』で、日本美術蒐集の実態とフランス美術に与えた影響について以下のように明瞭に記しています。
『少しでも学識を鼻にかけたいのならば《フランスの芸術と産業に対する日本の諸芸術の影響について》という題名で大仰な論文を書くことが出来るだろう。この相当に大きく明白な影響は、主要なものを挙げるだけでも、我が国のブロンズや壁紙や陶器などの製造において一種これ見よがしに告白され、誇示されてさえいるが、それはまた、人々の支持を受けている何人かの画家たちの才能にも、潜在的でもっと覆い隠された形ではあるが、やはり確実に作用したのだった。実際、日本美術の趣味がパリに確実に根を下ろし、愛好家たちや社交界の人々に伝わり、その後工芸品に幅を利かせたのは、我が国の画家たちを介してである。その熱狂は、導火線の上を走る炎のような素早さで、すべてのアトリエに広がった』。
以下第1回でも述べた各論なので省略しますが、この論文から分かるのが、1860年代におけるジャポニズムの初期形成は画家達が、特に伝統的な美術の変革を目指していた印象派の画家たちが先行主導していたということ。
そして浮世絵版画から受けた衝撃が、ルネッサンス以来の西洋絵画の表現様式を根本的に刷新するプロセスに深く関わっていくことになるわけです。勿論この点を過剰に強調するのは問題がありますけれど。
さて、そんな画家達の中で一番初期に導入かつ一番ジャポニズムの要素を備えていると云われるのが、これまた日本でも有名なエドゥアール・マネ。
そして彼の(少なくとも日本では)最も有名な作品と云えば『笛を吹く少年』。
実はこの作品、発表された1866年当時の風潮としては当然の事ながら、というべきか、サロンでは落選しています。
遠近感を廃し、人物の動きを効果的ながら最小限にとどめ、コントラストの強い色を平面的に用いている様は浮世絵の技法そのものですね。
ここで今回のクエスチョン。当時としては異端だったこの作品を高く評価したジャポニザンの同志でもある「とある批評家兼作家」の肖像をこの2年後マネは描き、これまたジャポニズムの影響の色濃い作品として後世に知られることになりますが、当時はまだ駆け出しだった、この「とある作家」とは一体誰でしょう?