異文化交流クイズ。セカンドシーズン第3回は「ジャポニズム」の中心とも言うべき、浮世絵からの出題です。
前回も書きましたが、浮世絵は陶磁器などと較べると、随分遅くになって輸出が開始されています。
これは浮世絵版画の頂点をなす木版による精巧な多色刷りの「錦絵」が開発されたのが1765年(明和2年)頃とされているからです。
で、実は現在の研究では最初に浮世絵をヨーロッパに運搬したと思われる人物まで特定されていて、これは1779年から1784年までオランダ商館長を勤めたイサーク・ティツィングだと考えられています。
彼に続くのが、かの有名なシーボルト。彼は1823年に来日し、1829年に日本地図持ち出しを図って国外退去させられていますが、この6年間に収集したコレクションがドイツの彼の自宅で1830年以降公開され、また北斎の「写真画譜」をパリやウィーンの図書館に寄贈したことにより、浮世絵が一般の人の眼に触れるきっかけとなります。
本格的に流出し始めたのはやはり開国以降で、先陣を切ったペリーは彼の遠征記録に歌川広重の浮世絵を石版で複製し掲載していますし、彼に続いて来日した外国人たちはその訪問記の扉絵や挿絵に盛んに浮世絵版画を入れたりしました。
勿論、複製だけでなく浮世絵そのものも同時に流出していきます。とりわけある意味で「皮肉な話」というか「運が良い」というべきか、明治政府のお雇い外国人達――モース、フェノロサ、キヨッソーネ等々――は明治政府から得た高給を、そのまま日本美術の収集に当て、それらの作品が現在ではボストン美術館、ワシントンDCのフリーア美術館、ジェノバのキヨッソーネ美術館、ウィーン国立工芸博物館の東洋美術コレクションの礎となっているわけです。
そして欧米で革命的な表現として浮世絵版画の評価が上がると、需要は爆発的に増加します。
しかし当の日本人にとっては、日常的に手に触れる、安価な大量印刷物である浮世絵版画は美術品とは認識されず、浮世絵輸出を扱う美術商林忠正が、市価の数倍で買い取ろうとしたとき、誰もが押入をかき回して競って売り渡したと言われています。
なんと、この林の経営する会社「だけ」でも輸出した浮世絵版画の枚数はなんと!
さて、ここで今回のクエスチョン。この林忠正は学生時代の1878年、パリ万博の出展に辺り、1873年のウィーン万博にあたり政府に替わって日本の美術品を販売することを目的に若井兼三郎によって設立された起立工商会社に雇われた通訳ですが、万博終了後、パリ駐在員として現地に残り、後に独立。モネやゴンクール兄弟とも深い交流を図りましたが、彼の会社が輸出した浮世絵版画は、およそ何枚だったと考えられているでしょうか?
前回も書きましたが、浮世絵は陶磁器などと較べると、随分遅くになって輸出が開始されています。
これは浮世絵版画の頂点をなす木版による精巧な多色刷りの「錦絵」が開発されたのが1765年(明和2年)頃とされているからです。
で、実は現在の研究では最初に浮世絵をヨーロッパに運搬したと思われる人物まで特定されていて、これは1779年から1784年までオランダ商館長を勤めたイサーク・ティツィングだと考えられています。
彼に続くのが、かの有名なシーボルト。彼は1823年に来日し、1829年に日本地図持ち出しを図って国外退去させられていますが、この6年間に収集したコレクションがドイツの彼の自宅で1830年以降公開され、また北斎の「写真画譜」をパリやウィーンの図書館に寄贈したことにより、浮世絵が一般の人の眼に触れるきっかけとなります。
本格的に流出し始めたのはやはり開国以降で、先陣を切ったペリーは彼の遠征記録に歌川広重の浮世絵を石版で複製し掲載していますし、彼に続いて来日した外国人たちはその訪問記の扉絵や挿絵に盛んに浮世絵版画を入れたりしました。
勿論、複製だけでなく浮世絵そのものも同時に流出していきます。とりわけある意味で「皮肉な話」というか「運が良い」というべきか、明治政府のお雇い外国人達――モース、フェノロサ、キヨッソーネ等々――は明治政府から得た高給を、そのまま日本美術の収集に当て、それらの作品が現在ではボストン美術館、ワシントンDCのフリーア美術館、ジェノバのキヨッソーネ美術館、ウィーン国立工芸博物館の東洋美術コレクションの礎となっているわけです。
そして欧米で革命的な表現として浮世絵版画の評価が上がると、需要は爆発的に増加します。
しかし当の日本人にとっては、日常的に手に触れる、安価な大量印刷物である浮世絵版画は美術品とは認識されず、浮世絵輸出を扱う美術商林忠正が、市価の数倍で買い取ろうとしたとき、誰もが押入をかき回して競って売り渡したと言われています。
なんと、この林の経営する会社「だけ」でも輸出した浮世絵版画の枚数はなんと!
さて、ここで今回のクエスチョン。この林忠正は学生時代の1878年、パリ万博の出展に辺り、1873年のウィーン万博にあたり政府に替わって日本の美術品を販売することを目的に若井兼三郎によって設立された起立工商会社に雇われた通訳ですが、万博終了後、パリ駐在員として現地に残り、後に独立。モネやゴンクール兄弟とも深い交流を図りましたが、彼の会社が輸出した浮世絵版画は、およそ何枚だったと考えられているでしょうか?