一般的に、人に推薦された本は読まないものだし、書評で済ます読書というものもあり、なかなか本が読まれない時代になってきています。
しかし、一冊の本との出会いには運命的な図りごとが設定されていることがあるようです。どっぷりと、その本の中に埋没して全的な経験をする至福をいただくことがあります。そういう予感きらめくフレーズを素材抜粋として集めてみました。
とは言いましても、原書に当たられることが何よりです。ともかく、本を読んだものが勝ちというわけです。
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素材抜粋 2001/03/26
ベンチャーキャピタルの実態と戦略
出典:W.D.バイグレイブ、J.A.ティモンズ著
『ベンチャーキャピタルの実態と戦略』
日本合同ファイナンス(株)訳・東洋経済新報社
ARD(ハイテク新設企業への純投資)を研究したパトリック・ライルズによると、ベンチャーキャピタルは、当時のボストン連銀総裁ラルフ・F・フランダースの構想であった。新規企業の設立件数の減少と、保険会社や委託基金などの機関投資家に集積されつつあった資金が利用できないことを懸念したフランダースは、1945年11月16日、シカゴで開催された全米証券業協会の総会で画期的な提案を発表した。
創業企業に資金を提供できる公的な機関が存在しない時代に、フランダースは1940年投資会社法の規程を一部緩和して、機関投資家資産の5%を新しい会社の株式購入資金に充てることができるようにすべきだと提案したのである。
「アメリカのビジネス、アメリカの雇用、アメリカ国民の繁栄は、自由な企業体制のもとで新しい企業が続々と生まれてくることで保証される。将来にわたって既存大企業の成長だけに依存することはできない。新しい力、エネルギー、才能を吸収しなければならない。支援を求める新しいアイディアのために、莫大な機関投資家資金の一部を投資するための仕組みを作らねばならない。」
ラルフ・F・フランダース
ドリオ(ハーバード・ビジネススクールの教授)、フランダース、その同僚は、第二次世界大戦中にMITで開発された技術の企業家の可能性を信じていた。金融機関の資金さえ導入できれば、政府の援助がなくとも民間の独立した機関を設立し、技術的な研究成果を企業化できると確信していた。
しかし1980年になって、「正常」な投資サイクルは短縮された。時間をかけ、しっかりした審査(デューディリジェンス=ベンチャーキャピタルが投資に際して対象企業の調査・分析を行い、判断を下す審査プロセスを指す。)は、思わぬ結果を生んだ。つまり、慎重な審査をしようとすればするほど、なり振り構わぬ新設ファンドに最後のところで競り負けてしまうのであった。
通商委員会の調査によると、第二次世界大戦後に行われた画期的な全イノベーションの95%は、大企業ではなく、むしろ設立間もない中小企業が起こしたものであった。新規参入者なくしては、いかなる経済も長期的下降を避けられない運命にある。
彼ら(マーチャントキャピタル)の好むのは、MBOやMBI(マネジメント・バイイン)、そしてエクスパンションステージ(発展期)にある成熟企業である。スタートアップ企業に対してはほとんど興味を失いつつあり、またスタートアップ企業投資のノウハウもほとんど持ち合わせていない。この種の投資が、世界各国のベンチャーキャピタルの85%以上を占めている。イギリス最大手のベンチャーキャピタル3iですら、スタートアップ企業投資から撤退し、1991年には自らを「ディベロップメントキャピタル」と名付けている。
しかし知識社会においては、これこそがリーダーシップを発揮し得る唯一の処方箋なのである。ここでは、特化(focus)、迅速(fast)、柔軟(flexible)、そしてフラット(flat)の4Fを持った企業が求められている。すなわち、将来性のあるニッチな市場に特化していること、変化する技術や市場にすばやく対応できること、物事の処理が柔軟であること、できるかぎりヒエラルキー階層の少ないフラットな組織を持っていることである。レジス・マッケンナが述べているように、今後は「『その他』の時代」になるであろう。すなわち、産業分類では「その他」に分類されるような新しい産業分野での成長企業群の時代が来る、というのである。新しい時代には、有名な大企業ではなく、起業家に率いられた若い企業が中心的存在となろう。
だが彼(アマー・ボーズ、MIT教授でオーディオ機器メーカー設立者)は、世界経済の中にあって筆頭の競争相手である日本とドイツの教育システムにもはや追いつけないほど、アメリカの教育水準が低下していると懸念する。
先進国で経済を変革しつつある知識社会への挑戦において、より適応力の労働力を有するのは、アメリカであろうか、それとも日本であろうか。……。
日本メーカーの素晴らしい製造技術に当惑しているフォーチュン500社を見て、アメリカのビジネススクールは、経営効率の改善を教える講座を増やしてきた。しかし、こうすることによってビジネススクールは、MBAの学生に改良主義、言い換えればプロダクトイノベーションよりもプロセスイノベーションを重視する考え方を植え付けてしまう危険を冒している。もちろん、現在の経営をできるだけ効率的で合理的にするために微調整は必要である。そうすれば、日本の魔法のような製造方法にも追いつけるかもしれない。
しかし、左脳の理論的分析力だけでは、アメリカ産業を海外との競争で勝利に導くことはできないであろう。創造力をもっと駆使することが大事である。残念ながらMBAの講座では、洞察力と創造力を犠牲にして、分析力を強調しがちである。ドリオが以前指摘したように、MBA出身者に分析できないものはない、彼らは、もうこれ以上分析しても意味がなくなるまで、何でも分析してしまうのである。
つまり、1980年代半ばのハーバードは、科学者とエンジニアを金融業者と不動産業者に育て直していたことになる。
「教えるべきでないことを教え、教えるべきことを教えてこなかった」のではないだろうか。MBAの学生は、ボウスキー、アイカーン、ミルケン、クラビス、ピッケンズ、トランプのことを大変よく知っている。しかし、フレミング、ショックレー、バーディーン、ワトソン、クリック、フェルミ、タウンズのことはほとんど知らないであろう。これらのノーベル賞受賞者の発明が現代人の生活そのものを大きく変革したにもかかわらず、多くの学生は、彼らハイテクの生みの親たちについてまともに答えられないのである。
ハイテク分野の起業家の偉大な業績を軽視する一方で、金融業界の派手な「偉業」を、あたかも魔術のように喧伝し、起業家や学生の欲望を過剰に刺激してしまったのではなかろうか。失業を生み出す金融業者より雇用を増やす起業家に憧れる学生を育てねばならなかったのである。
世界的な起業家である故本田宗一郎は、官僚は「新しいことを始めようとすると何かと障害になる」と述べている。
しかし、一冊の本との出会いには運命的な図りごとが設定されていることがあるようです。どっぷりと、その本の中に埋没して全的な経験をする至福をいただくことがあります。そういう予感きらめくフレーズを素材抜粋として集めてみました。
とは言いましても、原書に当たられることが何よりです。ともかく、本を読んだものが勝ちというわけです。
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素材抜粋 2001/03/26
ベンチャーキャピタルの実態と戦略
出典:W.D.バイグレイブ、J.A.ティモンズ著
『ベンチャーキャピタルの実態と戦略』
日本合同ファイナンス(株)訳・東洋経済新報社
ARD(ハイテク新設企業への純投資)を研究したパトリック・ライルズによると、ベンチャーキャピタルは、当時のボストン連銀総裁ラルフ・F・フランダースの構想であった。新規企業の設立件数の減少と、保険会社や委託基金などの機関投資家に集積されつつあった資金が利用できないことを懸念したフランダースは、1945年11月16日、シカゴで開催された全米証券業協会の総会で画期的な提案を発表した。

「アメリカのビジネス、アメリカの雇用、アメリカ国民の繁栄は、自由な企業体制のもとで新しい企業が続々と生まれてくることで保証される。将来にわたって既存大企業の成長だけに依存することはできない。新しい力、エネルギー、才能を吸収しなければならない。支援を求める新しいアイディアのために、莫大な機関投資家資金の一部を投資するための仕組みを作らねばならない。」
ラルフ・F・フランダース
ドリオ(ハーバード・ビジネススクールの教授)、フランダース、その同僚は、第二次世界大戦中にMITで開発された技術の企業家の可能性を信じていた。金融機関の資金さえ導入できれば、政府の援助がなくとも民間の独立した機関を設立し、技術的な研究成果を企業化できると確信していた。
しかし1980年になって、「正常」な投資サイクルは短縮された。時間をかけ、しっかりした審査(デューディリジェンス=ベンチャーキャピタルが投資に際して対象企業の調査・分析を行い、判断を下す審査プロセスを指す。)は、思わぬ結果を生んだ。つまり、慎重な審査をしようとすればするほど、なり振り構わぬ新設ファンドに最後のところで競り負けてしまうのであった。
通商委員会の調査によると、第二次世界大戦後に行われた画期的な全イノベーションの95%は、大企業ではなく、むしろ設立間もない中小企業が起こしたものであった。新規参入者なくしては、いかなる経済も長期的下降を避けられない運命にある。
彼ら(マーチャントキャピタル)の好むのは、MBOやMBI(マネジメント・バイイン)、そしてエクスパンションステージ(発展期)にある成熟企業である。スタートアップ企業に対してはほとんど興味を失いつつあり、またスタートアップ企業投資のノウハウもほとんど持ち合わせていない。この種の投資が、世界各国のベンチャーキャピタルの85%以上を占めている。イギリス最大手のベンチャーキャピタル3iですら、スタートアップ企業投資から撤退し、1991年には自らを「ディベロップメントキャピタル」と名付けている。
しかし知識社会においては、これこそがリーダーシップを発揮し得る唯一の処方箋なのである。ここでは、特化(focus)、迅速(fast)、柔軟(flexible)、そしてフラット(flat)の4Fを持った企業が求められている。すなわち、将来性のあるニッチな市場に特化していること、変化する技術や市場にすばやく対応できること、物事の処理が柔軟であること、できるかぎりヒエラルキー階層の少ないフラットな組織を持っていることである。レジス・マッケンナが述べているように、今後は「『その他』の時代」になるであろう。すなわち、産業分類では「その他」に分類されるような新しい産業分野での成長企業群の時代が来る、というのである。新しい時代には、有名な大企業ではなく、起業家に率いられた若い企業が中心的存在となろう。
だが彼(アマー・ボーズ、MIT教授でオーディオ機器メーカー設立者)は、世界経済の中にあって筆頭の競争相手である日本とドイツの教育システムにもはや追いつけないほど、アメリカの教育水準が低下していると懸念する。
先進国で経済を変革しつつある知識社会への挑戦において、より適応力の労働力を有するのは、アメリカであろうか、それとも日本であろうか。……。
日本メーカーの素晴らしい製造技術に当惑しているフォーチュン500社を見て、アメリカのビジネススクールは、経営効率の改善を教える講座を増やしてきた。しかし、こうすることによってビジネススクールは、MBAの学生に改良主義、言い換えればプロダクトイノベーションよりもプロセスイノベーションを重視する考え方を植え付けてしまう危険を冒している。もちろん、現在の経営をできるだけ効率的で合理的にするために微調整は必要である。そうすれば、日本の魔法のような製造方法にも追いつけるかもしれない。
しかし、左脳の理論的分析力だけでは、アメリカ産業を海外との競争で勝利に導くことはできないであろう。創造力をもっと駆使することが大事である。残念ながらMBAの講座では、洞察力と創造力を犠牲にして、分析力を強調しがちである。ドリオが以前指摘したように、MBA出身者に分析できないものはない、彼らは、もうこれ以上分析しても意味がなくなるまで、何でも分析してしまうのである。
つまり、1980年代半ばのハーバードは、科学者とエンジニアを金融業者と不動産業者に育て直していたことになる。
「教えるべきでないことを教え、教えるべきことを教えてこなかった」のではないだろうか。MBAの学生は、ボウスキー、アイカーン、ミルケン、クラビス、ピッケンズ、トランプのことを大変よく知っている。しかし、フレミング、ショックレー、バーディーン、ワトソン、クリック、フェルミ、タウンズのことはほとんど知らないであろう。これらのノーベル賞受賞者の発明が現代人の生活そのものを大きく変革したにもかかわらず、多くの学生は、彼らハイテクの生みの親たちについてまともに答えられないのである。
ハイテク分野の起業家の偉大な業績を軽視する一方で、金融業界の派手な「偉業」を、あたかも魔術のように喧伝し、起業家や学生の欲望を過剰に刺激してしまったのではなかろうか。失業を生み出す金融業者より雇用を増やす起業家に憧れる学生を育てねばならなかったのである。
世界的な起業家である故本田宗一郎は、官僚は「新しいことを始めようとすると何かと障害になる」と述べている。
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