惚けた遊さび!
【出所】『情緒の力業』高野 義博 近代文藝社 1995
第7章 瞑想的感応
はじめに
出所:『情緒の力業』第7章瞑想的感応 序 言葉の交響
p.264~p266
要するに、線条論理に対するこの直感的会得の道は、一般的に数量化できず、概念化できず、伝達し得ず、線条的な因果の段階を登って極められるものではない。むしろ、登ったり降りたりしながら、様々に結び付き、重なり、複雑なアラベスクを織り、渦雲状の塊を成すものである。
そして、たまたまやってくる経験の華は、その沈黙、忍耐、関心の集中によって甚振られた無数の言葉の交響の中から万の関係と万の依存が一瞬の内に形成し合う「情緒の力業」の巨大な子不ルギーによって花開くのである。そこから更に、瞑想的感応の広大な世界ヘー挙に全天空的な展開を始めるのである。
瞑想的感応そのものについては語れないがせめてそこに至るには無能な「Was」を捨てて、「Wie」の投網を投げよう。
そこで、この数ある「Wie」の一つとしての「引用」の効用について考えてみると、「引用」という技法は、普通は因果論的論理の線上をなぞるだけの追加、言い替え、根拠等として用いられている。
つまり、論旨の補完又は拠り所として線条性論理構築の一手段とされているのであり、それに奉仕するように組み込まれているのである。引用の動機としての「釈」とか「義」とかが行われるレベルが因果論のレベルで行われている限り、それは全て因果論の枠内という限界が初めから設定されているので、人為的で非創造的な行為とならざるを得ないのである。それは、自由な設定も、創造的な展開も、自然の顕現も当初から排除するように構造化されているのである。
引用の典型として空海の「十住心論」を考えた場合でも、そこに繰り広がる「綾なす引用文の連続運動」(山折哲雄)がはたして因果論的な顕教レベルを突破して密教レベルの言語観を達成しているかどうかは大いに疑問とするところである。要するに、「引用」という手法はどのように使おうと線条性論理の守衛どまりなのである。
そこで、我々は以下に羅列する無作為な言葉の響き合わせ(義)によって、このような引用とは異なるものを意図(博)してみよう。
というのも、これは前後左右、顕在的なものと潜在的なもの、上下、過去と未来……を縦横に駆け巡って関係と依存の再建、新しい構築を企てる「情緒の力業」を作動させるやも知れぬ不確かな技法なのである。
不確かというのは、これは一に当事者の沈黙、忍耐、関心の集中という能動的受容が行われるか否かにかかっており、当事者の構想の中のみに存在し、客観的な有り様をして誰にでも把握出来るというものではないのである。
それは、太古に、あるいは原初にそうであったように「それ」と我々とが不可分離の一体をなしていたように再構成し、「それ」と我々を融即的な直感的全体と成し、断片化し無機化していた対象を意味に溢れる有機化した全体とする技法である。
これは、あるいは終わりが無い単なる「惚けた遊び」かも知れない。
しかし、ここにきて最早これ以上語りようがないのである。さらば、哲学よ!
我々に残されたことは、「情緒の力業」を希求しつつ世界を読むこと、見ること、聴くこと、つまり人生の全てに、己を晒すこと。
そうして、成らざれば沈黙。
序 言葉の交響
誰が語ったのかは問題ではない。ともかく誰かが語ったのだ。
(ベケット)
その章句をとおして……ある観念または心象のまわりに
(ラム・ダス)
思考を走らせる助け
(エイゼンシュタイン)
あらゆるものを、できるだけ多くの感覚にさらすこと
(コメニウス)
あらゆる感覚を不羈奔放ならしめることによって、未知のものに到達する。
(ランボー)
私は目もくらむほどの体験に身をゆだねたいのだ
(ゲーテ)
わたしは考えてはならないのだ。何よりもまず感じ、そして見なければならないのだ。
(カルペンティエール)
*268の引用集です。スマホ・タブレットに保存しておいて、修行のひとしぐさとして、ひらめきの嵐にまみえたいときなどに一寸お楽しみください。(著者)
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